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日本の学術界をむしばむ「肩書き依存症」

理研と日本版NIHに見るその病理と、改善策の模索

佐藤匠徳 生命科学者、ERATO佐藤ライブ予測制御プロジェクト研究総括

 筆者は、以前、日本版NIH(独立行政法人「日本医療研究開発機構」略称: AMED)の主たる9分野それぞれを統括するプログラムディレクターの平均年齢が、古希(70歳)をゆうに超える布陣である問題点を指摘した(「一体どうなる日本のライフサイエンス!:日本版NIH始動で懸念される負の影響」WEBRONZA2015年3月25日掲載)。

辞令を受けるため、文部科学省を訪れた松本紘・理化学研究所理事長(左)と野依良治前理事長=2015年4月1日、野瀬輝彦撮影

 その後、理化学研究所(理研)の理事長をSTAP事件の引責ではなく「在任期間の長さや自らの年齢の高さを理由に」辞任された野依良治氏(76歳)が、6月1付けで国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)の研究開発戦略センター長に就任したことを知り、改めて高齢者が要職にとどまり続ける日本の構造的問題点を考えたいと思うようになった。理研の新理事長には3月まで京都大学総長を詰められた松本紘氏(72歳)が就任している。

 このように、高齢で権威のある地位に長年就いている方々が、いつまでも要職に座り続けている例は多い。いわゆる「天下り」だけでなく、権力や知名度をもった国立大学教授が定年退職後(あるいは退職間近)に、学長(総長)、私立大学教授、研究所長、行政機関の役員、といった要職に就くのである。

 筆者は年齢で差別する気は毛頭ない。能力の衰えがなければエネルギッシュに仕事をされるのは大歓迎だ。実際、米国では70歳をゆうに超えても、それまで以上に貪欲に研究され、論文を量産されている方々が筆者のまわりにも大勢いる。しかし、筆者が今日本で目にしている現象の多くは違う。

 権力のある立場に長年就いておられた方々の多くは、何歳になろうと「自分は能力がある」とかなり確信しておられる。しかし、そうではない場合が多々あることは間違いない。また、そうした方々は「肩書き」がなかなか捨てられない。筆者は、これを「肩書き依存症」と呼んでいる。これらは放置できない問題だと筆者は考える。

 そこで、これらの原因について論じ、改善策を提言したい。

高齢で能力的な衰えがあっても要職がこなせる日本のシステム

 高齢になれば、個人差はあるとはいえ、確実に身体的に衰えは来る。また、いわゆる「頭の体力(集中力の持続や短期記憶など)」も必ず落ちる。

 人の上に立つ要職には、普通の人には耐えられないほどの仕事量とプレッシャーと責任が伴うはずである。その任務を果たすには、それなりの身体的・精神的な体力が必要となる。古希ともなればそもそも必要とされる体力がないはずだ。つまり、根本にある問題は、現在の多くの職場では、身体的・精神的に過酷な労働をこなさなくても要職に就いていられるという現実なのだ。

 本来の労働がこなせなければ追い出される(つまり首を切られる)環境があれば、そもそも古希を迎えた方々は要職に就かないし、就けない。いくら高齢者が「自分はまだまだ若いもんには負けん」といったところで、

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