まず必要なのは「意識とは何か」の共通理解
2015年08月03日
人工知能をはじめとするICT(インテリジェント・コミュニケーション・テクノロジー)と呼ばれる分野が急速に進展しつつある。そこへの思いは単純ではない。人工知能がヒトの予測や制御を超えて自らを進化させはじめる特異点(シンギュラリティ)は来るのか、ヒトの職業をロボットや人工知能が奪うのではないかなど、不安は尽きない。他方、介護や、深海など危険地帯での労働、創造、教育などの分野では、バラ色の夢も描かれている。
そうした中で哲学的な異彩を放つのが、冒頭の問いだ――「ロボットは意識を持ち得るか?」。これは「ロボットは自由意思や責任を持てるか」という問いにもつながり、その帰すうは産業だけでなく、政治・経済・法制や文化、そして広く人間観の近未来に大きな影響を及ぼすはずだ。
(つまらない出発点のようだが)この問いに対する答えは、言うまでもなく定義による。「意識を持っている」という状態についての理解が、実に曖昧(あいまい)で多様だからだ。次にその定義に照らして、誰がどのような基準で意識の有無を判定するかということも問題になる。
「階級意識」「エリート意識」など、比喩的ないしは拡張した意味で使われる場合を、まず排除させてもらう。考慮するのは「覚醒している実感」「私がここに居るという実感」「(この赤色を)見ているのは私だ、という実感」などの場合だ。
だとしても、一人称の意味で使われる場合(この原稿を書いているこの私が「意識を持っている」)と、二人称/三人称の意味で使われる場合(読んでいるあなた、またはあの彼女が「意識を持っている」) を、まず峻別しなくてはならない。
この点を曖昧にしてきたことが、この問題にコンセンサスが得られない原因となってきた。ただ裏返せば、これらすべての人称ケースについて同じ「意識」という言葉が適用される(できる)認知・言語構造の中で、私たちは生きている。そこにこそ最大の謎があり、その答えも(おそらくは)ある。
(この区別を前提に先に進むと)二/三人称に話を限定せざるを得ない理由が、複数ある。
まず言うまでもなく、実験心理学や認知神経科学の知見は、ほぼすべて二/三人称のデータに限定される。筆者は自らが被験者となって脳を刺激したり脳活動を記録したりしているが、それを他の被験者からのデータと併せて公刊した途端に「三人称のデータ」になってしまう。
ここで、「『私』の一人称の知覚経験と、『彼(女)』のそれとを突き合わせて共通点/相違点を論じられるではないか」と頑張る科学者がいるかも知れない。だがそれとても、しょせんは科学者の第三者的立場からの議論に過ぎない。またそうでないなら科学ではない(この点については哲学者永井均が一般向けに、しかし徹底的に 論じ尽くしているので、ここでは深入りしない)。
二/三人称に話を限定せざるを得ない第二の理由として、相手がロボットではなくて生身の人間の場合ですら、相手が「一人称の意味の意識を持っている」ことには、定義上(相手が自分でない以上)確証がない。相手が「意識を持っているかのように振る舞うゾンビ」だと疑ってみることはいつでもできて、それに対する究極的な反証はあり得ない(実際、そういう議論をする神経哲学者もいる)。
「相手も自分と同じように意識を持っている」という考えは、良くても私たちの共通の信念か、生活上の常識あるいは「作業仮説」に過ぎない。
という訳で、「ロボットは意識を持ち得るか」という問いは、二/三人称に意味を限定して問わざるを得ない。つまり私たちの目の前にいる何者か(ヒトまたはロボット)について、「意識があり意図的に行為をする」エージェントとして認めるか、という問題だ。
近未来を考える上でも、
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