尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト
1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。週1回の読書ブログ「めぐりあう書物たち」を開設中。
「監督」を失っても「主将」を前面に出すというカミオカ人事の絶妙さ
素粒子ニュートリノの変身現象(ニュートリノ振動)を見いだし、その粒子に質量があることを裏づけた梶田隆章さんのノーベル物理学賞受賞は、100人規模の科学者の力を結集して進めるビッグサイエンスの大発見をどうたたえるか、という難題を考えさせる。
ノーベル賞の理系3賞は、個人に贈るのが基本だ。それも、一つの賞で1年に3人までとなっている。このために、受賞研究が大人数のチームによってなされたときは、そのリーダーが選ばれるのが常道だった。1998年にニュートリノ振動を見つけたスーパーカミオカンデチームは、東京大学宇宙線研究所長だった戸塚洋二さんが率いていたが、その後、がんとの闘いの末に2008年夏、66歳で亡くなった。その前から、ニュートリノ振動の発見はノーベル賞の下馬評で最有力候補の一つとなっており、科学記者としての思いを打ち明ければ、戸塚さんが受賞に間に合えばよいのだが、と願ったものだ。結果としてそれは叶わず、受賞の夢はいったんしぼんだのである。
この落胆は、東大宇宙線研を中心とするスーパーカミオカンデチームだけのものではなかった。世界中のニュートリノ研究者にとっても大問題だったと言ってよい。
今回の発表資料にも書かれているように、ニュートリノ振動の発見は、スーパーカミオカンデチームが地球大気からのニュートリノを調べることで発見した。それを太陽から飛んでくるニュートリノの観測で確固たるものにしたのが、梶田さんと共同受賞するアーサー・B・マクドナルド博士率いるカナダ・サドベリーニュートリノ観測所(SNO)のチームだった。マクドナルドさんやSNOの成果はもちろん、ノーベル賞に値する。だが、いくらなんでもスーパーカミオカンデを抜きに受賞の栄誉に浴するわけにはいかない。なんとか、スーパーカミオカンデに受賞の道を開くことはできないか。世界の物理学界に、そんな思いがあってもおかしくない。
きわめて幸運だったのは、大気ニュートリノの観測で実働グループの中心にいた梶田隆章さんが戸塚さん死去の年の春、49歳の若さで宇宙線研のトップに就いていたことだろう。戸塚さんから数えて3代あとの所長だった。
梶田さんは、スーパーカミオカンデチームで早くから大気ニュートリノの観測に手をつけていた。その果実であるニュートリノ振動の発見を、1998年に岐阜県高山市で開かれた国際会議の壇上に立って報告したのも梶田さんだ。今回の発表資料も「発見を発表(プレゼント)した」と強調している。梶田さんには、チームを代表する資格があるということだろう。それに加えて宇宙線研所長として、実験物理学の聖地とも言えるカミオカ(岐阜県飛騨市)の「顔」になったのである。これによって、リーダー「トツカ」の陰で目立たなかった大気ニュートリノ観測第一線の貢献者「カジタ」の名が広まった。
論座ではこんな記事も人気です。もう読みましたか?