郡司篤晃・元課長のメディア批判 当時の記者はこう見る
2015年12月30日
亡くなる直前の7月に刊行された著書「安全という幻想 エイズ騒動から学ぶ」(聖学院大学出版会)が注目されている。エイズに関する一部の報道ついて自らの体験をともに批判している。
いま、メディアに何が問われているのか?
郡司氏が課長在任当時から、朝日新聞科学部記者としてエイズの取材に携わっていた医療ジャーナリストの田辺功氏(元・朝日新聞編集委員)にエイズ報道の問題点、メディアの課題を聞いた。
1982年ごろ、朝日新聞の科学部記者として仕事をしていて、アメリカでエイズ問題が起こっていたことに関心を持っていました。いつか日本にもエイズが入ってくるのではないかと気になっていました。
83年6月に厚生省がエイズ研究班を始めました。そのころは主に社会部の厚生省担当記者が研究班の取材をしていましたが、科学部も端っこでかかわっていました。
当時、厚生省生物製剤課長として取り組んでいた郡司さんや、その部下の課長補佐に会っています。
――田辺さんはどんな記事を書いていましたか。
たとえば、帝京大学医学部の安部英教授の内科で診ていた血友病患者が日本で最初のエイズ患者ではないかという記事を書きました(83年7月)。
しかし、その後、厚生省検討委員会が米国在住の別の日本人患者をエイズ患者第一号と発表して、形の上では誤報のようになってしまいました。結果的には正しいことを書いていたと思います。
当時、私が取材していた範囲内では正確に書かれています。
82年に生物製剤課長に就任した郡司さんはエイズに注目してデータを集めていました。そのころ、アメリカのエイズに関心を持っていた役人はほとんどいませんでした。早くから注目して対策に乗り出し、エイズ研究班を立ち上げた郡司さんの功績は大きかったと思います。
――郡司さんは著書でNHKスペシャル「埋もれたエイズ報告」(94年放送)を批判しています。この点はどうでしょう。
83年6月に米トラベノール社が汚染された血液製剤を回収し、同社から郡司さんに文書で報告していました。この重要な回収報告を、直後に開かれた厚生省の第1回のエイズ研究班会議に報告しなかった、それで日本の血友病患者に感染が広かったというのが「埋もれたエイズ報告」でした。
番組の中で、ある研究班員は「この文書は初めて見ましたですね」と答えます。
郡司さんも、研究班会議に報告したかどうか覚えていませんでした。
しかし、後に東京地検が厚生省を家宅捜索した際に、第1回研究班会議の録音テープが見つかり、郡司さんが回収を報告していたことが明らかになります。実際には、報告をしたけれど、研究班会議で回収報告は重視されなかったのです。
約10年前のことを取材しても、関係者の記憶はあいまいです。人間の記憶はいかにあてにならないものかわかります。
今でも国民の印象に残るいくつかの報道は誤りでした。
――郡司さんとともに、エイズ研究班長を務めた帝京大学の安部教授も責任を問われました。96年に業務上過失致死容疑で逮捕され、起訴されました。
安部さんの裁判は無理筋でした。
結局、東京地裁は安部さんに無罪判決を言い渡しました。
当時は非加熱製剤を使っていたのは帝京大だけではありませんでした。安部さんの直接具体的な治療を指示したわけではないのですが、第一内科の長として責任を問われました。
安部さんはしゃべりが下手でした。家父長的な態度で、誤解されやすい物言いをしていました。
しかし、彼ほど血友病の治療を真剣にやろうとしていた人は少ないと思います。血友病の患者数は少なく、治療に手間がかかる病気ですから、専門の医師は少ないのです。
患者にとっても医師にとっても不幸だったのは、エイズの発症率がきわめて高かかったことです。84年当時、安部さんらも発症率がこんなに高いとは思っていなかった、ウイルスが入って抗体陽性になっても、発病するのはその一部と考えていたと思います。
安部さんの裁判のときに、仏パスツール研究所のバレシヌシ博士(後にノーベル医学生理学賞受賞)は「84年末ころ、エイズ発症率を正確に見積もることは非常に難しい状態」と証言しています。
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