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[1]科学者討論@北海道大学

科学者は「監」られている――若手研究者が語る大学の現在

秋山正和 片瀬貴義 相馬雅代 石村源生 大津珠子 津田一郎 中垣俊之 尾関章

 大学の風景が変わった。研究者は世の中に還元される業績を求められ、役に立つことがわかりやすく見える成果が歓迎されている。研究費の獲得競争は激しくなり、納税者の目も無視できなくなった。倫理面でも経理面でも厳しい目にさらされている。文系学部の見直しをめぐる議論も、こんな流れを映していると言えよう。科学が監(み)られる時代。監られる側にいる若手研究者が、先輩科学者や科学コミュニケーションの専門家らと大学の今を語り合った。

《発言者》
秋山正和(北大電子科学研究所助教 応用数学・数理生物学)
片瀬貴義(北大電子科学研究所助教 材料科学・酸化物エレクトロニクス)
相馬雅代(北大理学研究院生物科学部門准教授 動物行動学)
石村源生(北大CoSTEP准教授 科学技術コミュニケーション・対話の場のデザイン)
大津珠子(北大CoSTEP特任准教授 科学技術コミュニケーション・グラフィックデザイン)
津田一郎(北大理学研究院数学部門教授 応用数学・複雑系科学)
中垣俊之(北大電子科学研究所附属社会創造数学研究センター教授 物理エソロジー)
尾関章(科学ジャーナリスト・北大電子科学研究所客員教授)

・2015年6月10日に北大構内で討論、採録原稿をもとに発言者が加筆修正した
・CoSTEPは北大高等教育推進機構に属する科学技術コミュニケーション教育研究部門

尾関 まず、若手の方には簡単に自己紹介を。

秋山 北大電子科学研究所の秋山といいます。もともとバックグラウンドは数学。でも最近は数学をやっているけど生物もやっている人みたいな、そんな感じに覚えてください。よろしくお願いいたします。

片瀬 電子科学研究所の片瀬と申します。私は、石ころの素材を使った、機能のある薄膜電子材料・デバイスの研究をやっています。よろしくお願いします。

相馬 相馬と申します。理学部生物の所属になるんですけれども、半分心理学者です。よろしくお願いいたします。

尾関 みなさんのご専門に共通していえるのは、新聞記者が記事にするときに大きな記事になりにくい分野なんですね、残念ながら。今ですと再生医療とか、宇宙開発とか、あるいは素粒子物理ですとかは派手な記事になりやすいのですけれども、みなさんの分野ってわりとなりにくい。そういうなかで、ご自身の研究を世の中に向かってこうだよと言うって、とても大事なことじゃないかと思います。自分の研究を世の中一般の人たちの世界にどう位置づけるかという視点を入れながら、今やっていることを語っていただけたらなと思っているんですが……。相馬さんからいきましょうか。

鳥で探るコミュニケーションの進化

相馬雅代さん相馬雅代さん
相馬 私がやっている研究分野は、動物行動学とか行動生態学、比較認知科学、あとは進化生態学とかにまたがる分野になるかと思うんですけれども。社会という文脈のなかでどういう位置づけになるかというと、人間の行動を対象になさっている方にとっては、人間がどういう生き物であるかということを理解するようなアプローチだと思います。ですが私は、人間を対象にしていなくて、主に鳥類を扱っています。
 具体的に私が興味をもっていることというのは、たとえば、いま私はこうやってコミュニケーションをとっているわけですけれども、そういう能力はどうして私たちにあって、どう機能しているのかというようなことを、生物学的な、あるいは進化学的な文脈で考えたいというふうに思っています。

髪の毛の流れに磁石の方程式

秋山正和さん秋山正和さん
秋山 はい。僕はバックグラウンドが数学なんですけれども、数学って真理を探究する学問分野です。で、そういう僕が今やっているのは、大まかに言えば、主には生物系の中でどういうふうな統一的な原理が成り立っているのかを探る仕事です。
 たとえば最近は、毛の流れの研究をしています。まゆ毛も、こう毛が流れていますよね。髪の毛も、流れています。毎日、櫛なんか入れると、そこを癖が覚えてということもありますけど、生まれたての赤ちゃんは櫛なんか入れなくても毛が流れています。人間以外の動物、たとえばネズミでも、頭からしっぽに向かってこう自然に毛が流れています。実は鳥の毛の流れも、ウロコの前から後ろみたいなパターンも、あれも理屈があって、訳があってああいうふうに並んでいるんですよね。そのなかでも僕が研究しているのは、ショウジョウバエというハエの羽根の表面にも毛がやっぱり生えていまして――あれは、板のように思うんですが――毛が生えていまして、それに関して研究をしています。
 図がないので、わからないかもしれないんですけれど、突き詰めていくと細胞がずらずらと並んでいて、その細胞一つ一つにその向きを決める働きみたいなのがあって、その向きが全体としてそろうことによって、毛になったりウロコになったり、人間だったら髪の毛になったり、そういうふうなマクロな構造をつくっていると。ミクロなパーツを調べていくとマクロにつながる、そういう感じなんですけれども。
 おもしろいのは、そういうミクロなレベルで式を書きます。それは数理モデルなんですけど、その式をよく見ると、磁石でよく出てくる式と似たような式が出てくるんです。磁石の原子は一個一個方向性をもっていて、それが一致するときに磁石と呼ばれる状態になるんですけれども、それがばらばらになっちゃうと磁石にならない。そのことでは大昔に物理学で出てきた式と、僕が毛の方向を研究しているときに出てきた式が同じなんです。
 つまり、生物を勉強していて物理が出てくるわけです。そういうのはやっぱり、物事を抽象化するという数学によって得られるひとつのなにか、僕としてはおもしろいところなのかなと。もちろん、それが周りの人におもしろいかといわれるとわからないですけれど、僕は少なくともそういうのがおもしろくて探究していると。ちょっと長くなりましたがそんな感じです。

尾関 なるほど。では、片瀬さん、どうぞ。

「おもしろい」「使えるな」という新デバイス

片瀬貴義さん片瀬貴義さん
片瀬 私の研究は、お二人とは違って、いわゆる硬い物に属する話ですが、石ころの素材、つまりはセラミックをターゲットとしておりまして、世の中で役に立つ電子材料、デバイス開発というのをめざしてやっています。具体例としては、最近だと、目に見える光は通すけれども、熱になる赤外線だけは自在に遮断できます、透過できますというような、新しい機能をもったデバイスで、それは、石ころの薄膜を使うことで実現できるものです。
 ほかには、ディスプレーのように色を表示する機能と、電気をオンオフするトランジスタという機能を一つの石ころの素材でできるデバイスというのもつくったりしています。
 昔と違って今は物があふれていて、何が欲しいというイメージがわきにくい環境になっていると自分は思っています。そのなかで、これはおもしろい、使えるな、というような新しいデバイスが新しい世界をつくると信じて、そのような開発研究というのをやっています。固体物理学のようなことももちろんやっているんですが、やっぱり世の中に役に立つことをやるというスタンスです。

尾関 片瀬さんのお仕事はわりと世の中に役立つ。ほかの二人ってそういう役に立つということがないじゃないですか。どうやって「いや、やっぱり私がこれをやるのは意味があるんだよ」と、世の中の人に言いますか。

生物学も「源氏物語」も人間理解

相馬 そういう話を研究者の友人とかともすることがあるんですけれども、「役に立つか立たないか論」で言ってしまえば、たとえば『源氏物語』とかシェークスピアの研究って意味がないと思うんですよ。でも、たぶんなくならないはずなんですね。それがなんで価値があるのかというと、人間自身の理解に対する寄与があるからだと思っているんですね。
 私がやっている研究は、直接は人間自体の理解にはつながらないんですけれども、生物という意味での人間の理解には大きくつながるというふうに思っています。たぶん、私たちはすごく知性が発達した動物なんですけれども、でも、自分がどういう生物なのかということをそれほどわかってはいない。
 あるいは、理学系全体につながるような話をすれば、地球がどういうふうに成り立っているとか、私たちを取り巻くシステムがどういうふうになっているかということを把握できる唯一の存在であるにもかかわらず、必ずしもきちんと把握していない。
 しかし私たちの活動が、それらに対してすごく大きな影響を与えているということは理解すべきじゃないか。そういう意味で、根本的なところを明らかにするということは意味があると思うんですよね。

秋山 たしかに、毛の流れがわかったってどうなの、ということはあると思うんですけれど、さきほども言ったように、毛の流れは実は一例になっているだけでして、ミクロな構造からマクロができるという、そのしくみ全体を理解すると、ハエなんかだと、ある種の分子を1個壊すと毛の方向を全部逆立てることができるんですよね。それは、役には立たないと思うんですけど、しくみを理解するということは、人間に応用する、もしくはしないということを、考えたうえで決められるという意味で、大事かなと思ったりする。
 あと、やっぱり形態がどういうふうにできあがっていくかというのは、たぶん、どの人も絶対知りたいことの一つだと思うんです。宇宙がどうなっているかというのは、みんなが考えたことがあるテーマで、形がなんでできているかというのはその根本にある。だから、知的好奇心という意味では、これ以上役に立つ研究はないと私は思っているんです。

尾関 あと、さっきちょっとおっしゃったけど、そういう磁性体のような話と生き物の毛みたいな話と、その、ある意味抽象化したモデルというものはどちらにもつながるということは、それを使って新しいなにかの知識を得るという広がりもあるかもしれない。

秋山 そうなってくれればいいと思っています。抽象化した時点で実はモノと離れたりするんですけど、あるときそういう抽象化した概念が別の場所にふっと移ったりして、つながったりするので、そういう新しい科学というのをちょっと進めていきたいとは思っていますけど。

尾関 さあ、ここらあたりで「年長組」にも一言(笑)。津田先生あたり、まさにそういうことの先駆者でいらっしゃるように思うんですけど、どうでしょうか。

最近気になるのは人文軽視

津田一郎さん津田一郎さん
津田 最近気になっていることがあったので、それと関連してみなさんに聞いてみたいなと思うことがあります。
 それは、新聞にも出ていましたからご存じだと思いますけれども、文部科学省が、大学における人文社会系の学問を見直せと。見直すというのは即つぶすということではないんだけれども、端的に言えば、役に立っていないのではないかと。
 これに対して理工系は、はっきり言って戦前というか明治維新のときからそうだと思いますけど、殖産興業とか、そういうことには役に立つと思われているわけです。直接的に人の社会を変革するから役に立つと。だから、理工系はひとくくりにしちゃえば基本的に経済の発展を助け、もっと言えばアベノミクスを後押しするからよろしいが、人文系の学問はそれに比べると後押ししないではないかというようなことだったと思います。
 僕はもう1年ぐらい前から、実はある程度知っていたんです。そういう議論が文科省の中にあるということを。それで、ちょっとまずいんじゃないかなと思っていた。これは、大学が法人化された時点で予想しなきゃいけなかったわけですね。つまり、法人化というのはそういうもので、わりと効率重視で、誤解を恐れずに言えば役に立つことは進めるんだけれど、一見そうじゃないようなものには予算は出しませんよという方向に流れやすいわけです。だから、早晩そうなっていくだろうと思うんですね。

尾関 相馬さんが『源氏物語』やシェークスピアとおっしゃった。

津田 文学なんかも、そういうものを通じて我々の感性を高めてくれるわけですね。とくに理系の人間は、そういうところで感性を磨いておかないと、逆に非常に危険なことをやる。理系の学問というのはおもしろいので、この前も言いましたけど、もし爆弾をつくれといわれたらつくっちゃうかもしれない。自分の中になにかそういう悪魔的なものがやっぱりあるわけです。おもしろいなと思って、それがどう使われるかってあまり考えないで、なにかつくってしまいかねない。そこで、ちょっと待てよというのが感性ですよね。だからそういうものを養ってくれる学問を大学から整理整頓しましょうということでいいのかなと、非常に強く思った。みなさんどうですか。

相馬 私は、当たり前にそういう人間の文化的な部分が受け継がれていくということは重要だと思うんです。そういうものは目に見えないし、目立って役に立っているわけでもないので、ないがしろにされがちな風潮があるというのは感じますね。
 もう少し言えば、私は先ほど半分心理学系の出身だというふうに申し上げたんですけれども、心理学は、なぜか日本だと文学系に入ります。でも、すごく領域横断的なので、たとえば脳科学など理系に分類される分野とも密接に絡んでいたり、臨床心理だと医学系と結びついていたりする。現在のそういう文系の学問が必ずしも理系とすっぱり切れるのかなというのも、私は正直わからないです。

尾関 津田さんの問題提起は、相馬さんが言われた心理学のように科学の流れといろいろなかたちでかかわってきているにもかかわらず、なにかこう、やせ細った考えで切ってしまっていますよね。

津田 ええ、だからちょっとね、驚くべき決断をどこかでしているんだろうなと思うんですけど。

尾関 大津さん、CoSTEPはまさに文理両方の領域を見ているようですが、そのことで文系の人たちの危機感みたいのを感じますか?

教育の場に大切なリベラルアーツ

大津珠子さん大津珠子さん
大津 はい、感じつつも親として大学を見たときに、研究の場なのか教育の場なのかよくわからないなと。息子が文系に進学を希望すれば、親として、国立大学と私大を比較してどの程度、教育に力を入れてもらえるか考えてしまいます。
 いま津田先生が言われるように、すごく文系科目は大事だと思うんですけれども、予算も限られているし、あとは、もしかしたらちょっと乱暴な言い方をすると、文系的な学問ってお金が掛からないのかなと(笑)。
 津田先生とか、ほかの先生たち、秋山先生もそうだと、たぶん装置を買うだけでものすごくお金が掛かりますよね。

秋山 いやまあ文系に比べれば、かかる方だと思いますね(笑)。

大津 だから、そうすると、いろいろな少子化とか人口減で学生数も減っているなかで、国公立大学が求められる役割が変わりつつあるのかなと思ったりもする。でも、津田先生がおっしゃるように、やっぱり教育の場であることは確かなので、たとえ理系であっても、そういうリベラルアーツは本当に重要なのに、それを切り捨てるというのは残念だなと思いますね。

モノの開発に人文科学のヒント

片瀬 ちょっと理工系に寄った意見ですが、人文学と理工系の関係という意味で、人文学的な解明が理工系の開発につながるって結構あると思っています。たとえば、新しいモノをつくるときに、人文学的なところからヒントを得て、なにか開発するというような関係もある。

尾関 実生活に役立つという局面では、かなりいろいろな人間的な要素というのがかかわってきているということなのかな。

片瀬 はい。

尾関 大津さんがご専門の都市計画などは、まさにそういうものですよね。街で暮らしているときに、人間の行動をどうとらえるかとか、人間のものの考え方をどうとらえるかということと、都市計画みたいな工学的な部分とは、かなり重なりますよね。その意味では、片瀬さんのやっているお仕事なども応用の局面にいくと、かなり人間がかかわってくるということですかね。

片瀬 はい、そう思います。常にそういうイメージをもちながらやっているというところは、私にはあります。

尾関 石村さんも、今の「役に立つ」「役に立たない」論と、文系理系の問題でご意見ありますか。

「役に立つ」は生き方論につながる

石村源生さん石村源生さん
石村 ちょうど私も、昨日SNSで、「役に立つ」「役に立たない」論に関して何人かの方と議論したんです。役に立つということがいったい何なのかを、落ち着いて考えてみる必要があるのかなと思っています。禅問答めいた言い方をすると、役に立つということがいったい何の役に立つのかと(笑)。
 たとえば、車を速く運転するのに役に立つ素材ですよと言われたとする。じゃあ、車が速く運転できるということはいったい何の役に立つんですかと。それは目的地まで早く到達できると。じゃあ、目的地に早く到達できるということはいったい何の役に立つのというふうに、もう無限に遡及していって、上位目的を考えていくと、結局そこにはやっぱり人間としての価値観とか、社会はどうあるべきかとか、人はいかに生きるべきかとか、自分自身はどういう信念をもって生きるべきかとか、そういう哲学の問題に行き当たると思うんですね。
 やっぱりそういうところを抜きにして、まず目の前の、取りあえず、この非常に狭い視野のなかのこの目的のために役に立つよね、ということももちろん大事なのかもしれないですけれど、じゃあ、そこから先はどうなのということは非常に大きなクエスチョンで……。
 それを考えていくとやっぱり、人文科学というよりは、先ほどいろいろなデバイスが開発されても、モノがどんどんあふれてきて、それがどう生活に直結するのかなかなか難しい時代になってきているとおっしゃっていましたが、まさにそういうところで、自然科学だとか工学、エンジニアリング、テクノロジー、それから製造業自体の課題でもあると思うんですね。
 わかりやすく言うと、マーケティングと言ってもいいと思うんです。性能のいいもの、スペックのいいものをつくっても、それがどうしたら人の心に響くのか、どうしたら売れるのかということまで考えるようになったとき、実は役に立つためだけでさえ、特定の理工系分野の狭い領域だけの研究開発をしていたのでは追いつかないような時代に、もうすでに突入しちゃっているのではないか。そこではもう人文科学とか、社会科学だとか、自然科学だとかという境界もなしに、先ほど言ったような哲学を求めるような動きというのが、もうすでに最先端の製品開発の分野でさえ起こっているのではないかというふうに感じますね。

尾関 成長戦略というのがもう絶対善のようにいわれるわけだけれども、当然、果たして経済はそもそも成長していくべきかどうかというところでも、本当は議論があるわけですよね。そこのところを考えるというのは、かなり人間の生き方論とか哲学だとか、そういうのにかかわってくる。そこらへんに立ち返って、なにかものを考えるということをしなくなっちゃったような感じがありますね。津田さんがうなずいてくださっているけど。そんな感じしませんか。

津田 いや、だから、ちょっとね、北大を歩いていて、あんまりそんな世知辛い感じはしないんだけど(笑)。まだちょっと昔の大学の雰囲気がある。必ずしも、昔がいいとは思いませんけれども、大学が大学として社会とうまくマッチングしていた時代もあったと思うんですよね。そこがちょっとずれてきているんだと思う。そのずれたときに、大学はあくまでやはり人を育てるところなので、研究をやらないと質の高い教育というのはできないということを前提として研究をしているわけですね。だから、われわれは教育職ですからね。附置研だって別に研究職じゃないわけです。みんな教育職。だから、研究だけやっていればいいというわけじゃないんです。教育をしなきゃいけない。いずれにせよ若い人を育てる、そこが一番やっぱり大事なことです。
 そのときに、学問を基準にして、学問に立脚して人を育てるというのが大学だと思うので、学問のところがやっぱりしっかりして、そこからさっきのフィロソフィーが出てくれば、社会とのずれを、社会に逆に還元して埋めることができるんじゃないかと。それは社会への発信の一つだと思う。私の研究は役に立ちますよ、と言うだけではなくて、いかに一見役に立たないか、ということでもいいと思うんです。そこを突き詰めて考えてくださいねという概念なり哲学までいけば、そういうことを社会にフィードバックしてギャップを埋めていく。そうすると大学もわりと過ごしやすくなるかなという気はしました。

尾関 中垣さんの粘菌の広がり方の研究は「役に立たない」の見本かなと思っていたら、それがJRの鉄道網のかたちにつながっていて、あっと驚かされるということがある。その何か、その展開が僕はすごく、ある意味でおもしろいと思っているんですけれども。

中垣 あれは方便(笑)

尾関 そういう意味じゃ、「役に立つ」「役に立たない」論で、ひとことおありなのでは。

通り易い論理の独り歩きが怖い

中垣俊之さん中垣俊之さん
中垣 石村さんもおっしゃっていましたが、社会のニーズと言ったときに、そこが結構希薄な感じでとらえられていると思います。成長戦略や福祉や環境みたいなことが号令のように言われて、それを出せば金科玉条のごとく、はい、わかりました、という感じになる。会議でも、その理由づけが通り易くなっていると思うんですけれども、その通り易さがもうすでにいけないという感じがいたします。
 それが何の役に立つのかを突き詰めて考えるということではもう思考停止しちゃってます。だから学生と話していても、これはこういうふうに役に立つ、人類の福祉につながるとか、困っている人が助かるというふうに話を落としたら、それでおしまい。その先はもう問わないという姿勢を感じることがあります。
 それは通りはいいし、それでもやっていけるとは思うんですけれども、これは学問としては深まらない。学生に本当に伝えたいことって、知らないことをどうやって探っていったらいいかとか、今までにないものをどうやって(見方を変えることによって)つくり出していくかということなんですけれども、通り易さに短絡するような発想でいたらできないと思うんです。だから、そういう通り易いロジックがどんどん独り歩きしていく感じが、そら恐ろしい。
 一方で、やっぱり人文科学はとても大事で、たぶん理系の学問よりよっぽど大事だと思います。多くの方はそう思っているんじゃないかと思うんですよね。本だって売れるのは人文科学の本ばっかりで、理系の本なんてどんなにおもしろくてもほとんど売れないですよね。

大津 そんなことない。

中垣 いやいや、そうですか。

大津 買いました。

中垣 買っているけれども、全体からしたらもう部数の桁が全然違う。新聞の本の紹介でも、9割以上は文系の本なんですよね。理系の人が推薦するのも、なにか知らないけど文系の本が……。
 だから目先という意味では、理系の学問ってこんなに役に立つと言えますけれども、やっぱりもっと土台になっているところは人文系の学問がわれわれの心を満たしていると思うし、そもそも利便性とか、そういうものが全部なくなっても、人の心を満たしてくれるものってあると思うんですよね。人文系の学問には。そして、案外軽視されがちですが、理系の学問にも。そういう意味では、どちらの学問も我々の心の有り様にすごく役に立っているといえるでしょう。その意味で人間の根源的な部分からのニーズは間違いなくあるはずですけど、そういう論理がうまく展開していかないというのが、文科省のなかで悲しく思われるところです。文科省というよりは、社会全体でうまく展開していないというべきかもしれません。

尾関章さん尾関章さん
尾関 そうなんですよね。実際にお役人も圧倒的に文系の人たちで、本を読むといえばたぶん文系の本を読んでいるんです。ところが大学というものを、なにか一種の投資対象、投資する装置のように考えていて、それでお金のことだけを考えると、文系は研究費要らないだろう、みたいな感じで重点が理系に移っている。ところが、実はそういうことをやられると、大学の文系学部に対するリスペクトが失われていくみたいなところがあるのかなという感じはしますよね。

官僚には文系出身者が多いなのに

石村 ちょっと話が分散しちゃうかもしれませんけど、2点ほどよろしいですか。一つは、科学技術政策を決めている官僚だとか政治家の人たちというのは、ほとんど文系だったりしますね。そういう人たちが文系の価値をもし認めてないんだとすると、大学の高等教育の、文系教育の価値を認めてないのだとすると、じゃあ、彼ら彼女らが通っていた4年間、その彼ら彼女らを教えていた文系の教員はいったい何をしていたんだということもいえると思うんですね。こんなことを言ったら怒られるかもしれませんけれども。
 4年間も「顧客」を囲い込めておける、たぐいまれなチャンスを手にしておきながら、彼ら彼女らを人文社会系の教育や学問のファンにできなかったというのはいったいどういうことだということにもなる。
 私も文系と理系で行ったり来たりしているので、自戒の念を込めて言いますと、そこはちょっと大学教員としては反省しなきゃいけない点じゃないかなと。卒業してからファンになってもらえるどころか、目の敵にされてつぶされようとしている、その教育者っていったい何なんだと。それはやっぱり自戒しないといけないと思うんですね。
 もう一つは、さらにさかのぼるんですけれども、ちょっと冷静になって考えてみなきゃいけないのは、文科省とか財務省とかの官僚や、あるいはその諮問機関だとか審議会のメンバーが、役に立たない人文社会系の学部を廃止しろというようなことを本当に思っていて本当に言っているのか、まずは事実関係を確かめてみないと。メディアに載ってしまうと、ちょっと失礼な言い方で申し訳ないかもしれませんけど、きわめてセンセーショナルなキャッチコピーとともにそういう報道をされてしまうので。それで、すわ人文系崩壊か、みたいな感じで世間が騒げば騒ぐほど、新聞も売れるしテレビも見てもらえるので、やっぱり本当にそういうことを言っているのかというのは、ちゃんと検証してみないといけない。私は官僚や審議会のメンバーがそこまで表層的な考え方をして発言しているとはちょっと思い難いところがあるので、落ち着いて検証したうえで建設的に議論していく必要があるんじゃないかなと思います。

尾関 なるほど。最後の点は議論しておいたほうがいいですね。

津田 ちゃんと確認できると思いますけど、ネットですでにもう1年ぐらい前から出ているんですね。審議会の名前は覚えてないんだけど、かなりそういう議論がされています。具体的にだれがどう言ったかということも、たぶん見れば分かるので、ちゃんとチェックしたほうがいいですね。

石村 そうですね。

大津 廃止じゃなくて、国立大学と私立大学で役割分担しようということなのかなと私は思っていたんですけど、そういうわけでもない?

津田 そういう議論もあったと思います、確か。
 これはちょっと元に戻っちゃうかもしれないんですけど、一つは、やっぱり昔の教養部、リベラルアーツが崩壊したということが大きいと思いますね。それによって、結局いま1年半ですね、北大も1年半しかリベラルアーツをやらない。しかも、リベラルアーツといっても、本当にそんなに気前よく、はい、こんなものがそろっていますよというような、本来のリベラルアーツではないですね。だいたいもう科目が絞られちゃっていて、数学だってなにかちょっとつまらない。自分たちで言うのも何だけれども。

中垣 そういうのがよくないということです(笑)。昔の教養部については、反省すべき点は述べられてきたのだろうと思いますが、良かった点についてはあまり評価されなかったのではないかと推測します。現行制度の良い点をきちんと評価することが、往々にして置き去りにされてきたように思います。そして、今もなお。

津田 あの時間で線形代数と微積を教えてくれと言われたって、なかなか難しいものがあるんです。昔だったら2年間たっぷりあった。さらにそのまえ、戦前だと3年間やっていたわけでしょう。3年間旧制高校をやって、3年間大学に。アメリカの場合はいわゆるリベラルアーツといわれているものは、たとえばハーバードならハーバードでも何年かかかるわけですね。専門教育はそこからなんとかスクール、たとえばロースクールに行くとか、あるいはメディカルスクールに行くとか、理工系だと大学院ですね、グラデュエートスクールに行く。4年間は、ある意味でリベラルアーツをやっているわけです。その差はものすごく研究者の研究の深みに、大きな差となって、出てきている。

文系も実用志向、これでよいのか

尾関 人文社会系であっても、たとえば法科大学院のように、非常に実用志向的というか、実社会直接関与的なものばかりになっているという感じはあるわけですね。これは単に文部科学行政だけの問題じゃないかもしれないけど、一つの流れとして警戒し、それで本当によいのかと問い返すべきじゃないかなと思います。
 一番象徴的なのは、総合科学技術会議が総合科学技術・イノベーション会議にいつの間にか名前が変わっていたということです。科学の力点がイノベーションというところに移ってしまっているという感じかなと思います。
 あんまりこの話をしているといけないので、次にいきましょう。
 きょうのテーマ、「世界を観る科学者/世界から監(み)られる科学者」のうち前者は、まさに世界をみる、観察するということですけど、いまは世界から逆に監(み)られているということがある。これは石村さんが考えてくださったタイトルなんですけど、「みられる」の「みる」は監視の監なんですね。そういう意味で、世間のいろいろな間の目にさらされている。そういうことを何かお感じになることはありますか。
 自分と世間の人とのずれ、意識のずれみたいなのを感じることがあるかということも含めて、若手の人たちが、どんなことを感じていらっしゃるか。秋山さんからどうぞ。

秋山 難しい質問だと思うんですけど。「世界から監られる」のは、もうすでに結構大成した科学者だと思うんです。だから、そういう意味で、少なくとも僕はそこまで大成はしていないので、「監られる」ことに関してはそんなに強く、ああ、もう大変だなと感じたことは今のところないです。
 ただ、(「観る」という意味で)世界観ということで言うと、僕ら、とくに数学をやっている人は、いろいろ複雑に見えるものも簡単なものの組み合わせでできているに違いないと考える。複雑なものを複雑なものとして受け入れなきゃいけないときもあると思うんですけど、できれば簡単な枠組みでとらえたいと考えているんですよね。
 僕は実は年の離れた妹がいまして、先生から16分の8の通分を教わるとき、取りあえず16の割れるものを1、2、4、8と全部列挙せいと言われるらしい。分子についても列挙せいと。そして、同じものが現れたら線で引けと。たしかに、それで通分は確実にできる。でも256分の18とかになると、すぐには分母の256の約数を思いつくのが大変じゃないですか。
 そういうときに、もっとこういうふうにしたら簡単にできるに違いないと、僕は妹にも言うんですよね。計算を速くするしくみがあると思わない? とか言って教えたりするんです。そうすると、速い人は塾で良い方法を教えてもらっているから、みたいな話にもなる。それはオチとしてはあんまりよくないんですけど(笑)。
 何が言いたかったかというと。妹にも、大変だ複雑だと思うときこそ、いや、そんなことはない、絶対にきれいに解けると思ってくれと伝えたくなる。それが、僕の世界観。

尾関 世の中にはなかなか、物事を「みる」ときに簡略化して考えるという意識があんまりないということですか。

秋山 というか、そもそもそれを考えようとしていないんじゃないかと。

尾関 そこにずれを感じると。

秋山 そうですね。何か、もう受け入れてしまっていると。そうじゃなくて、立ち止まって考えると。簡単かもしれないし、難しいかもしれないんだけど、僕はそういうのがあるんじゃないかなと。

石村 ちょっとすみません、このタイトル、私が提案したので、非常にわかりにくいタイトルだったので、責任を取ってちょっと補足で説明させていただいてよろしいですか。

尾関 どうぞ。

倫理、マニュアル…「監られる」時代

石村 「監られる」というのは、何か本当にスターとして脚光を浴びるとかということでは必ずしもありません。まあ、そういった面ももちろん、みなさんのような優秀な研究者の方々にはおありだとは思うんですけれど、そういうことだけではなくて、たとえば卑近な例でいうと、報告書を書かされる頻度がすごく増えてきたとか、やたらなにか研究倫理の講習会、研修を受けなきゃいけなくなってきただとか、お金の使い方に関して非常に厳しい制限が付いて、だんだんマニュアルが厚くなってきているとか、あるいは、授業評価を学生から受けるとか、FD研修への参加が義務付けられるとかという話です。いままでのようにおおらかに自由にということが、なかなかしづらくなってきているというような意味です。周りから、研究者として、あるいは教育者としてプレッシャーを受けているというか、縛られているというか、そんなことを「監られる」という言葉で表したんです。

尾関 だけど、秋山さんたちの世代って、昔のおおらかな時代を、津田さんなんかが謳歌したおおらかな時代を知らないから、それをあんまり意識しないのかなと、いまふと思ったんだけど、ほかの人たちはどうですか?

「監られる」のは当然、違和感ない

片瀬 さきほどお話にあった、いろいろな意味で厳しく監られているというのが、私にとっては、なにか当然のように感じています。そういうものだと思って。

尾関 そういうものだと。

片瀬 はい、石村さんのおっしゃる意味での監られるという点で。今は、監られるのが当然になってしまっているので、ほとんど違和感を抱いたことはないです。

尾関 一つだけそれで質問していいですか。去年、STAP細胞の問題がありましたよね。それで研究ノート問題がありましたよね。理研などでは、かなり所内ルールを厳しくしたりしているみたいだけれども、そういう意味で変化はありませんか。

片瀬 そうですね、研究室単位という小さいなかでの変化ですけれど、たとえば、ディスカッションの場を多く設けて、そのなかで生データとかサンプルとかを目に見える状態にしていくことで、きちんとした研究をやっていくというスタイルにしていく……。

尾関 それは去年以降、そういう方向をもっと強めていこうという動きはあったわけですか。

片瀬 いえ、もとからそういう意識はあったと思います。

尾関 もとからそうだった?

片瀬 そうですね。とくにわれわれの分野ではヘンドリック・シェーンの事件というのもありましたし。

尾関 ああ、シェーン事件があったから。米ベル研究所のドイツ人物理学者が、有機超伝導体などの研究論文で不正を重ねたという事件ですね。やっぱりああいう事件というのは反省のきっかけになっているんですね。

片瀬 私はまだその時代には研究を始めていないので、はっきりはわかりませんが、おそらくそうですね、自分を省みるという。やはり、とくに実験が研究のメインとなる私にとっては、目に見える状態にしておくことは、とても大事だなと感じます。

尾関 どうですか、相馬さんの場合は?

相馬 STAP細胞以降に議論されているのは、博士号審査に関することですかね。どうするべきなのかについて、部局単位とかで議論を重ねていこうという動きがあると思います。

尾関 さっきの石村さんのご質問はどうですか。いろいろと「監られて」いるという……。

「なぜそんなことに研究費」と言われる怖さ

相馬 ある国際学会に行ったときに、アメリカ人の女性研究者が、すごくセンセーショナルで一石を投じるような素敵な発表をしていたんですよ。水鳥の生殖器の話だったんですけど、すごくおもしろい。だけれども、あまりにも世間の注目を浴び過ぎてしまったので、「なんで莫大なお金を使って、水鳥の生殖器なんていう、そんなくだらない研究をやっているんだ」と、ものすごく批判を浴びたという話を聞いて、ああ、恐ろしいなというふうに思った。
 世間というのは、下手をするとすごく表層的に物事をとらえて「それに、そんなにお金を使うの?」みたいなことを言いがちで、そういうことは私にも起こりかねない。本当に表層だけとらえられてしまうと、そう言われかねないなというふうに思いました。
 あと、世界の見方に関して、ひとこと。世の中の人は愚かだというふうにはあんまり言いたくはないんですけれども、きちんとした科学的な研鑽を積んでいない人が陥りがちな短絡的な思考というのはあると思っています。たとえば、血液型によって人の性格が違うというような話。人は、そう思いたいんだと思うんですよ。そういうふうに単純化したい。だけれども、それは違うということを、あの人たちがなかなか受け入れないというのはすごく不思議で、そういう意味で自分と世間の見方は違うんだろうなと。そこにたぶん、説明責任というものが生じてくるんだろうなとは思います。

尾関 どうですか、「年長組」のみなさんは、監られているという状況って、大変だねと思っていらっしゃるんじゃないかと思うんですけれども。

中垣 大らかな時代があったということについて、なにか思うことってありますか。

秋山 一部の人がなにかをすることによって、全体に足かせがはめられるみたいなことがあって、今のしくみがどんどん強まり、やらなきゃいけないことが増えているんじゃないかなと思うんです。逆に言うと、それがないときにはルールがなかったということになりますよね。そうしたら、本当にひどいことをする人だっていたかもしれないじゃないですか。

中垣 いたと思います(笑)。

秋山 それっておかしいじゃないですか。

ふるさと納税「科学研究」版はどうか

中垣 あまりつつくとまずいから、というようなことをうすうす感じたことがなくもないですけれども、多くの場合、隠されていて見えてなかったということもあると思います。  ルールの厳格化については、ついつい悪魔のささやきにということがないとは言い切れないので、ちゃんと縛ってもらうという意味でいいこともある、というふうに思わないと、なかなか気持ちがポジティブになれないということもありますけれど。
 「監られて」いるというのは、考えようによっては、インターフェースを自分で考えてつくっていくチャンスでもあるのかなと思っています。たとえば、研究費は日本学術振興会などから支給されますが、iPS細胞の山中伸弥先生みたいにマラソンを走って寄付を募るみたいなことは、すごい示唆的でした。1口2万円で僕の研究に、研究納税してみませんか、というのをホームページに書きたい。書きたいと思いながらも、やれていませんが。
 たぶんそういう手応えを直に感じるチャンネルが少しずつ開きつつあるのかなという気がしています。そこへうまくいいかたちで、乗っけていけたらいいなと思っています。ふるさと納税の次には、「研究納税」はどうでしょうか?

尾関 今のきっちりやるのが当然だというのはよくわかるんだけど、昔は悪意なき杜撰さというようなものが、結構あったんじゃないのかなとも思います。
 それで、ひとつ質問なんですけど、研究費っていろいろ使用目的を細目まで定めているんですけれども、科学には、ある目的でお金をもらったけど、やっているうちに見えてくるものが違ってきて、最初とは違うところに研究の対象が移るということがあるんじゃないかと思うんですが、どうですか。お役所の単年度事業をやっているわけじゃないんですから、そういう自由度も必要ではないのか。これは、津田さんのように研究歴の長い方にうかがいたいんですけれど。

津田 研究費について言うと、科学研究費補助金(科研費)が代表的なものですけれども、その使用に関してはずいぶん変わりました。昔はものすごく使いにくかった。費目をいったん決めちゃうと、そこから、その枠のなかで使わなきゃいけなかった。だから物品費を最初に申請したら、プラマイ何万円程度ぐらいしかできなかったんですね。だけど今はそこはもう。

尾関 むしろよくなっている。

津田 よくなっている。

石村 そういう面もあるんでしょうね。

津田 それは、文科省もずいぶん苦労したんだと思うんです。本来、日本はかなり厳しいんですよ。アメリカとか、ヨーロッパもそうですけど、一挙に額がぱんと来て、好きに使えと。何に使ったって別に構わないと。総額ちゃんと使ってくれればいいという、そういうことなんですが、日本はそうじゃなかった。これこれをやるためにはこれがこれだけ必要と決めたら、なかなか動かし難かったんだけど、それはやはり研究を阻害するのでよくないという研究者側からの声もあって、文科省もそれを聞いて、今はずいぶんよくなった。今は単年度制についても、ものによっては繰り越しができるようになりました。

尾関 みなさん方は、今まさに現場で研究されていて、もうちょっと何か融通利いてくれよなということはありませんか。

秋山 すごく、一つ言いたいことがあるんです(笑)。僕は4年前まで九州大学に勤めていまして、そのときにポスドクをやっていたんです。ポスドクで、幸運にもちょっと大きめのお金を得ることができて、理論系なので人と会って議論することがほとんど主になるので、旅費がかなり多めになるんです。
 実はポスドクって、雇用主のところで雇われているので、自分の研究をすると雇用主とは違う研究をしているということで、簡単に言うと給料が減るんです。たとえば、雇用主から90%で雇われていると、残り10%は好きなことをやりなさいと。でも、そうなると、自分の研究で頑張って研究費をとった人は給料が90%になるわけですよね。さらにその自分の用務でどこかに出張に出掛けると、その日は雇用主の仕事をしなかったということになって、90%よりもさらに減ることになって、僕は1年間に50日ぐらい出張したので、給料が70%ぐらいになった。何もしないポスドクと、どんどん出ていくポスドクで、差ができるわけですね。
 もちろん、そんな小さなことにこだわっていなかったのでいいんですけど、全体のしくみとしてそういうのがあるのはおかしいですよね。

相馬 科研費の執行の仕方って、大学によってルールが違う、若干少しずつ違うと思うんですよ。私は学生だったときは東大だったので、東大が一番厳しいと思います。東大にいる友人はいまだにこぼしているんですよ、これが大変とか言って。

尾関 どういうところが大変なの?

相馬 たとえば、研究で誰かと議論する必要があるので、出張するとかいうときに、北大では、「この日からこの日まで、だれそれと会ってきます」という申請を出すんですけれども、東大の友人は、その出張にかかわるアポイントメントのメールを全部出せと言われるというぐらい。

尾関 なるほど、まさに監視しているわけね。

相馬 そうですね。

秋山 阪大とかはレシートを出せと。

津田 阪大の先生はレシートを出しなさいと言われると言ってましたね。

秋山 現地でコンビニに行ったら、コンビニに行ったときのレシートを出せと(笑)。

尾関 かなり厳しい(笑)。やっぱりかなり監視されているな。研究のテーマ選びという意味では、研究費も競争的資金の科学研究費補助金にだんだん重点が移ってきた。私が科学記者になった80年代は、まだ校費研究費、今でいう運営費交付金の部分が結構あった。で、研究室にお金が来ても、そこからは自由だったんでしょう、基本的に。 昔は科研費をとらない信念の人もいた

津田 そうですね。だいたい教授でいくら、助教授でいくら、助手がいくらという割合で来るんです。それが各学科(教室)ごとに全体として配分されて教室運営がなされていたと思います。文科省(当時はまだ文部省)からは大学全体に予算が配分されてくるので、そこからは各大学がそれぞれ部局に配分し、各部局が各学科に配分するというやり方だったと思います。今も基本はそうなってますね。ですから、各学科の中では研究室ごとに一応の目安はあっても研究室間でやりくりは可能でした。

尾関 それなりにそういうところで自由な活動というのはできた。

津田 そのレベルの予算でできたんですね、多くのところは。だから、とくに、それ以外を取ってくるという必要性は理論系の研究室ではあんまりなくて。それともう一つが、うちの先生は理論物理だったけれども、科研費は一切取らなかった。信念。つまり、科研費を取ると研究がゆがむ。当時は使い方が厳しく制限されていましたから、最初に申請した通りやらなきゃいけない。それは本来あり得ない。さきほど尾関さんがおっしゃったように、やっている途中で変わってきちゃうので、それは許されないという時代がやっぱりどうもあって、そうすると、研究がゆがむので私は科研費を一切取りませんと言って、彼は取らなかったんです。だからうちは校費(運営費交付金)だけだったので、僕が計算機をバンバン、ぶん回すようになったら赤字になっちゃって(笑)。そうしたら、隣の先生のところに行って貸してくれと(笑)。むろん、それは許されていたわけです。それは今も同じです。研究室ごとで一応管理はしていても学科や部局が正式の管理母体ですから。

尾関 それ自体融通がかなり利いていると思うんだけど。

津田 研究室ごとで予算を閉めているわけではないので、研究室間の貸し借りはむしろきちんとした予算執行をするという意味では大事なことです。当時ものすごい黒字の研究室があったので、すっかり借りましたよ。でも今は国立大学が法人化したので、運営費交付金は毎年一定の割合で減って行っていますから、これからの人たちは大変ですね。

尾関 だけどどうですか、そういう校費研究費のようなものがそれなりの額あったらいいなと思いませんか。別に悪いことしようというんじゃなくて。研究をしていくときに自分で絵を描いて、デザインしてということですね、そうやってこうやって失敗したら失敗……そういうのがあった方がいいなという気はあんまりない?

「こういうことをやりたい」と書く意味

片瀬 とくに自分の場合は、まず装置ありきのところもあって。本当に何千万円というお金がないとできないので、だから、「こういうことをやりたいのでください」というふうに書かないと、なにかおかしいなと思われる。

尾関 なるほど。たしかにビッグサイエンスというほどではないにしても、やっぱり装置産業的なところがある、ということなのかな。
(後半につづく)