原爆の犯罪性と科学者の責任、京都が爆撃から逃れた背景を見つめなおす
2016年06月03日
去る5月27日、オバマ氏が米国の現役大統領として初めて広島を訪問した。当地スウェーデンの新聞はいずれもかなりの紙面を割いて「歴史的訪問」と報道し、英国BBCなどはweb版のトップに載せた。いずれの記事でも「謝罪なし」というタイトルが見出しについた。
日本では謝罪の必要なしという意見が大半だし、私も全く同意だ。それでも欧州で謝罪の有無が取り上げられたのは、太平洋戦争での核兵器の使用に欧州が「犯罪性」を感じているからだろう。数十万規模の都市を一発で破壊して多くの一般市民を巻き込むことが分かっていた以上、その使用に釈然としないものを感ずるのは当たり前だ。少なくとも現代では、原爆の使用は、たといそれが自国内であっても一番重い戦争犯罪だ。
国際基準から更に踏み込んだ「国の原理原則」が憲法である。日本国憲法は威嚇のための武力保持をも禁止している。にも関わらず、安倍首相は「核保持は合憲で、それを持たないのは政策にすぎない」と主張してはばからない。それは、国の原理原則に、国際基準での犯罪行為が含まれていると主張するのと同じだ。そもそも、被爆国かつ核技術を持つにも関わらず核兵器を持たない国として、本来なら日本が核廃絶運動のリーダーシップを取るべきなのにだ。それを無視して改憲による軍事大国化を明瞭に目指しているのが安倍首相だ。
問題は、そんな首相の就任から3年半も経つのに、内閣支持率が未だに40%以上を維持していることだ。核廃絶運動が風化している証左といえよう。そういうタイミングで米国大統領の歴史的訪問となった。実現まで70年もかかったが、核廃絶運動の風化の時期に合わさったのは幸運だったかも知れない。
もともとオバマ氏は核廃絶論者で、(早すぎる)ノーベル平和賞も貰っている。その彼の最後の年ということで、行きたいところへ公式訪問することに米国保守系の世論もやや甘い。特に共和党の大統領候補トランプ氏が昔からの持論「日本や韓国の核兵器保持があり得る」を3月26日にも再発言したことが、広島訪問を後押しする結果となった(なお、今ではこの発言を否定している)。だからこそ実現にこぎ着けた。それでも訪問の歴史的意義は決して減じない。
ちなみに、この訪問を安倍外交の成果と宣伝するメディアが日本にはあるが、上記の経緯を見れば世論操作も甚だしい。しかも原爆投下のより深い真相に踏み込めたかもしれない絶好のチャンスを、始めから生かそうとすらしていないのだ。残念というしかない。せめて原爆投下関係の米国資料(米国の機密文書は全て50年後に公開され、著作権もない)を日本語に翻訳公開するぐらいは政府の責任で直ぐにでもやってほしい。
この機会に、原爆投下をめぐって私の気にかかる3点「第2次世界大戦当時における原爆の犯罪性」「科学者はなぜ止められなかったか」「なぜ広島、長崎だったのか」を考えてみた。
実は1932年の軍縮会議と1938年の国際連盟決議(一般市民への爆撃禁止)で、一般人の殺傷を禁止しており、原爆も無差別爆撃も条約違反だった。子供など、戦争に関し全く罪のない者を虐殺する行為だからだ。しかも、1939年にはルーズベルト大統領自らが一般市民の住む都市への爆撃(例えば1937年のドイツによるゲルニカ爆撃)を止めるように仏独等にアピールしている。
従って、日本が数年にわたって行なった重慶無差別爆撃(ゲリラ対策、今でいえばテロ対策というお決まりの言い訳だが、本質は変わらない)は、日本が批准した1932年の条約に違反した戦争犯罪だ。始めたのは日本だ。欧州でもそれを始めたのはドイツとイタリアだ。
以来、都市爆撃をしないという紳士協定はご破算となって、双方が犯罪行為を繰り返す無法時代に入ってしまった。戦争末期の1945年春には米国による無差別爆撃がエスカレートし、日本の都市だけでなく、欧州でもドレスデンが無差別爆撃されている。その先に原爆がある。
非戦闘員を殺傷するという意味では、原爆の犯罪性は無差別爆撃の犯罪性と同質だ。だが、
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