法学学習の特殊性と法科大学院の本質的限界
2016年06月08日
次々と法科大学院が募集停止を発表するにつけ、私は、法学とは無関係のある大学教員とのおしゃべりを思い出す。それは、2004年4月にスタートした法科大学院制度から、はじめての卒業生が出るかどうかの時期だったと思う。
私自身は、法科大学院制度スタート前の、いわゆる司法試験一発勝負の時代に弁護士になったものだから、当然お決まりのポジショントーク(つまり、法科大学院制度反対論)を展開した。だいたい、自分が経験してもいない制度について、善し悪しを語るのはそんなに簡単じゃないし、ましてや自分に成功体験のある制度の欠点を網羅できるほど視野も広いほうじゃない。
いわく、大学在学期間が長くなり学費もかかり金持ちしか法律家になれなくなる、実務家が関与するとしても研究者主体で実務法曹が養成できるのか、法科大学院構想の背景になった社会の法曹増員への要請なんてものは本当にあるのか、etc....。
私の話を聞いていた大学教員は、ふむふむとうなずきながらも、私に尋ねた。
「ところで一般に、専門分野を問わず、高度な知的人材を育成するとなると、それなりの時間とコストがかかると思うんですよ。リスクもある。たとえば、高学歴ワーキングプアとかポスドク問題って言葉、知ってます?たいていは奨学金(もちろん借金)をもらいながら、学費を払う。博士課程後期まで行けば、5年間はかかります。時間とコストをかけて、なみなみならぬ努力をして博士号を取得したとしても、そんなに研究職のポストがあるというわけでもない。将来、民間で金を稼ぐ弁護士候補者を多数含む司法試験合格者が、司法修習期間に税金から給与をもらって、しかも、就職先に困らない、というのは、私たちからみると、とてつもない特権階級に見えますがね」
法曹界からすると、これに対するやっぱりお決まりのポジショントークがある。法曹(裁判官・検察官・弁護士)というのは、現行憲法のもと、三権の一翼である重要な司法制度の担い手であり、国民の権利義務に直接携わる以上、国が責任をもって、法曹候補者の身分を保障し、この法曹三者に対等かつ平等に、高度な法律知識と倫理意識を涵養させねば、かえって国民の権利を損ないかねない、というあたりである。私も、法曹界に身をおく者である以上、これには大賛成なのだが、くだんの大学教員を含め、法曹ではない人々に、この理屈で納得いただけるかどうかは、実のところ、自信がない。
2001年6月の司法制度改革審議会意見書を皮切りに始まった、司法制度改革は、法科大学院制度や司法修習生給費制廃止だけでなく、司法制度の様々な場面に及んでいる。それらは相互に関連していて、法科大学院制度だけを切り離して議論することはできないのだが、法曹の養成に特化するという前提を維持する限り、現在の法科大学院制度には、やはり無理があると考える。そこには、「法学」という学問の営みからくる理由があるように思う。
多くの学問は、
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