公平性の理念が危うい
2016年10月11日
今回のリオでは、パラリンピックの注目度が高かった。ドーピングや贈収賄など醜悪な面をさらけ出しているオリンピックに比べれば、障害者の活躍を賞賛する方が「政治正義」にも近い。ある意味安心して応援できる。そんな心理的な背景もあると言ったらうがち過ぎだろうか。また競技の中身もさることながら、記録の更新と器具のハイテクに注目が集まった。誤解を恐れずに言えば、パラリンピックには「未来形の面白さ」がある。
ついに期待されていたことが(恐れていたことが?)起きた。パラリンピックの優勝記録がオリンピックのそれを上回ってしまったのだ。男子陸上1500メートル(T13 視覚障害クラス)で、優勝から4位までの全選手が、今回のオリンピックの優勝タイムを上回るタイムを記録した(AFP=時事、9月14日)。
もちろん話はそれほど単純ではない。1500メートルはもともとかけひきが勝敗を左右する種目だ。今回は特にそれが記録にも表れ、オリンピックの優勝タイムも最近では例を見ない遅さだった。
だがそれでもこの「事件」は「障害者が健常者を上回る記録を出したらどうなるか」という問題を端的に提起した。「どうなるか」というのは、(健常者と並べて)どういう比較をするべきかという意味もあるし、オリンピックの理念であるはずの「公平性」が危うくなるのでは、という危惧でもある。またそれ以上に「未来身体」(=人と機械のハイブリッド)の行方を占う意味が大きい。
人類はこのままサイボーグ化して行くのだろうか?
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