オリンピックに取って代わる?
2016年10月12日
パラリンピックの入賞記録がオリンピックのそれに近づき、まさに凌駕(りょうが)せんとしている。そこから生じる「不公平」問題を、前稿では器具の技術進化という観点から論じた。「器具の優劣で勝敗が左右されるのは、公平性の理念に反する」、また「障害者が健常者と競うことを許せば、オリンピックでメダルを取るために自ら足を切断する者さえ現れるのでは」。そういう批判に対して、「熟練した道具は身体の一部となり、脳までが変わる。切り離して競わせる方が不公平」と反論し得ることも紹介した。
ここではあらたに、オリンピックとパラリンピックを連続的に捉える視点を導入して、さらに掘り下げたい。
前稿でも予告したように、「従来のオリンピックでは無かった問題が、パラリンピックで新たに生じた」というのは少し違う。むしろもともとオリンピックが抱えて来た問題、拡大してきた問題が、パラリンピックでいっそうあらわになった。そう考えるべきだろう。
以前に「カール・ルイスのデータに従って、(素人が)それと同じ速さ/フォームで走れる」ウェアラブル(=装着型ロボット)というのが、提案されたことがあった(実現したかどうかはわからない)。これは動力を与えているから、さすがに現在のルールでは違反だろうが、では人工物の反発力を利用するのはどうだろう。これはすでに陸上短距離や走り幅跳びに特化した義足で実現している。もしそれに問題があるというなら、靴底の材質を工夫して反発力を強くした運動靴と、どこが本質的に違うというのか。少なくとも両者は連続的ではないか。
では理想の走りのリズムだけ、ヘッドフォンなどで人工的に与える方法はどうだろう(ちなみにマラソンでは、人間のペースメーカーが公式に認められている)。あるいはフォーム矯正のためのフィードバックを与えることは。練習では当然認められるが、本番ではノー? ならばさらに半歩下がって、「いつも練習でこのロック音楽を聴きながら練習しているので、本番でも」と要求する選手が現れたら。
このようにいくらでも境界例は出現する。どんどん話は本質から外れ瑣末な問題になるように見えて、むしろそこにこそ問題の本質がある。つまり純粋な公平性や倫理性なんて、理念としてはあり得ても現実にはあり得ない。追求すればするほど、無理な一線を引くことになる。
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