「雑用」を減らしても別の「雑用」を探してくるという確信
2016年12月20日
先月、WEBRONZAで古井貞煕氏が「忙しさに自滅する日本の大学:アメリカの教員と、これほどの落差」というタイトルで、客観的数値で見事な論説を書かれた。
筆者も、25年あまりアメリカで研究・教育に携わった後に2009年に日本の大学で教授職に就いた時には、古井氏と全く同じことを感じた。アメリカでは、日本で一般に言われている「雑用」は事務の専門家、あるいは研究費を取れなくなってしまった教員が専門にやってくれるので、外部研究資金さえとってきてそこから自分の給料を払っている限りは、研究に専念できた。それが、日本の大学(筆者の場合は、奈良先端大学院大学なので学部はなく大学院のみである)では、教授や准教授は毎月一回「小学校の学級会のような」教授会に出席し、いいご年齢の博士号を持った大人たちが重箱の隅をつつくような議論を延々とする。はたまた研究室では、「小学校の先生」と同じように学生の「子守」をする。筆者のようにアメリカの大学でしか教員経験のない者にとっては、そこは大学ではなく「小学校」であった。
当初は、大学の先生方も、そういうことは「嫌々」やっておられて、本当は研究に専念されたいのだろうな、と思っていた。しかし、数年間「観察」を続けてわかったのが、この方たちは、実は、そこまで嫌々ではないのではないかということだ。
その根拠の一つは、あれだけ雑用をされていながら、それでも、学会や会議に出張される点だ。あえて忙しい道を選んでいるように見える。若手の助教クラスの先生方も、学生の教育(子守)で忙しいにもかかわらず、学会や研究会、その他内輪の集まりなどに頻繁に出張される。アメリカでは、出張で忙しいのは、超大物クラスの研究者で、いろいろな国際シンポジウムで講演を依頼されたり、アドバイザーや取締役で関わっている企業の会議に出かけて行かねばならなかったりするからであって、平均的な大学教員は、出張は非常に少ない。特に、若手の研究者は自分のラボで研究、そして学生の教育に専念する。
もう一つの根拠は、「雑用」に対する日本人特有のとらえ方だ。日本人教員や研究者は、どうも自分だけ雑用をやらないと、周りから白い目で見られると感じるらしい。また、数多くの学会、研究会、会議に顔を出すのも、「村の寄り合い」には常に顔を出しておかないと、いろいろな局面で不利になると感じるかららしい。
それに、日本人は
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