路線変更を許さなかった大学人と官僚の論理と倫理
2017年04月05日
恩師の山中千代衛先生が2月に亡くなられた。享年93。大阪大学航空学科2年生で終戦を迎え、同学科がGHQによって廃止されたため電気工学科に移籍。米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院に留学の後、母校・阪大工学部で教鞭を執った。若くして教授に昇進し、1960年にレーザーが発明されると、いち早く着目。レーザー核融合の実現を目指した(紀要「大阪大学経済学」に山中先生の2011年収録インタビュー記事がある。読んでみてほしい)。
私は山中先生のあふれる情熱と核融合という大きな研究に魅力と将来性を感じた。先生の研究室を選び、先生に感化されたことで、進路が研究志向に変わった。その後、私は研究のテーマを変えたが、山中先生のお陰なくして今日の研究者としての私はない。
この機会に、以前から感じていた個人的思いを書いておきたい。それは、目的研究の大型予算という大学人と官僚の共同作業の意義と功罪であり、大きな目的研究に振り回された大学人の生き方についてである。我が国のレーザー核融合研究40年を振り返り、予算獲得に奮闘する現在の大学人と官僚へ伝えたい、私の人生を賭した教訓でもある。
核融合は核分裂に比べると理学的に困難な課題が多かったが、「核融合は石油危機の救世主」と納税者は未来を託した。1980年には、阪大に約300億円という巨額の実験装置・激光12号の予算が決まり、前後して10近い新規教員ポストが認められ、私を含む前後3学年の学位取得者が教員に採用された。そして、1983年12月8日、核融合実験が始まった。
その後、山中先生は1986年に退官されるまで、赫々たる成果をあげ、世界中の研究者から賛辞を集めた。その成果がなぜ生まれたかを先生はよく「天地人」で説明した。「石油危機という天の時を得、阪大という地の利を生かし、使命感に燃える所員の人の輪が、成功に導いてくれた」と。私の胸にも、この言葉は深く刻まれている。
さて、山中先生は86年に退官される際、私達に「激光12号レーザーで可能と思われる核融合研究の成果は全て出し尽くした。大学に残る君達は大変だな」とニヤリとしながら仰った。1986年は「プラザ合意による急激な円高(1ドル=240円から140円へ)」、「バブル景気の始まり」と、激動の年の始まりであった(先の図も参照)。
その後は「成果が出尽くしたから、10倍大きなレーザーの予算が欲しい」と8年間言い続けるが、当時の文部省はもう聞いてはくれない。既に「石油危機フィーバー」の熱は冷め、核融合研究の「天の時」は過ぎていたのである。しかし、核融合を目指した研究者には核融合しか見えない。退官された山中先生もたびたび大学に来ては「七たび死すとも核融合」とハッパを掛ける。
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