メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

優生保護法のもと「16歳で同意なく不妊手術」

ゲノム編集時代に向き合うべき声

粥川準二 叡啓大学准教授(社会学)

 1948年に制定された「優生保護法」という法律は、障害者や遺伝性疾患を持つ人に対する強制的な不妊手術や人工妊娠中絶を認めていた。同法は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことなどを目的としていたが、1996年にそのような優生思想的な条文が削除され、「母体保護法」となった。

 優生保護法にもとづいて1949年から96年までの間に行われた不妊手術は、記録に残っているものだけで約2万4991件、中絶は同じく5万8972件。不妊手術——「優生手術」ともいう——のうち、8516件は、形式的には本人の同意にもとづくものだったが、1万6475件は本人の同意にもとづかず実施されたものである。

 出生前診断が普及し、受精卵ゲノム編集が議論されているいまこそ、日本社会は優生保護法にもとづく不妊手術や中絶という過ちを見つめ直す必要がある。

診療所で、事情も分からないまま

 「いまも苦しいです。毎日がつらい」。今年3月28日、参議院会館で「優生手術に対する謝罪を求める会」が開催した集会で、16歳のとき、同意のないまま不妊手術をされた宮城県の70代の女性はそう話した。

 女性は1946年に県内で生まれた。家庭は貧しく、中学3年のとき、知的障害者のための施設に入所させられた。1年後、「職親」のもとに預けられた。職親とは、知的障害者を預かり、社会適応できるよう指導する人のことで、当時の「精神薄弱者福祉法」に定められたものである。職親の家では、女性は、他人の子で「バカだから」といじめられ、食べ盛りにもかかわらず食事さえ満足には与えられなかったという。

「優生手術の必要を認められる」と書かれた相談所の書類を前にする宮城県の女性(画像の一部を加工しています)=2016年8月
 1963年1月、職親に県の「更正相談所」に連れて行かれ、「いじめられ、いつも頭が混乱している」まま、知能検査を受けさせられた。その後、診療所に連れて行かれた。広瀬川の河原にあった椅子で、職親におにぎりを食べさせられ、診療所に行ったら父親が待っていた。女性は事情がわからず、体が悪いのかと思っていた。手術されたことは覚えていないが、何日間か入院した。同じ年頃の女の子がいたことは覚えているという。

 手術後、実家に帰った。そのとき、父親と母親が話しているのを聞いて、自分が子どもを産めなくされたことを初めて知ったという。それ以降、生理のときには痛みがひどくなり、仕事も続けられなくなった。結婚したが、子どもができないことで離婚してしまったという。

日弁連が厚労相に意見書を提出

 この問題に詳しい利光惠子・立命館大学生存学研究センター客員研究員によれば、この女性に行われた手術は「卵管結紮(らんかんけっさつ)」だと推測されるという(『戦後日本における女性障害者への強制的な不妊手術』、同センター刊、2016年、37頁)。卵管結紮とは、卵管と呼ばれる器官を糸で縛り、精子と卵子が受精しても受精卵が子宮にたどり着けないようにすることで、妊娠を不可能にする手術のことだ。

 なお優生保護法で認められていないはずの放射線照射や子宮摘出によって、妊娠を不可能にされた女性も確認されている。しかし政府が調査を行っていないため、実態は不明である。

人権救済の申し立て後、集会で弁護士らの話を聞く宮城県の女性(手前)=2015年6月
 女性は2015年、日本弁護士連合会に対して人権救済を申し立てた。この申し立てが日弁連を動かしたようだ。今年2月22日、日弁連はこの問題についての意見書を厚生労働大臣あてに提出し、優生保護法で不妊手術などを受けることを強いられた被害者たちへの謝罪や補償、被害の実態調査を求めた。

 意見書は、

・・・ログインして読む
(残り:約1673文字/本文:約3139文字)