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高等教育の一律無償化に反対する

重要なのは、経済的に恵まれない学生への支援だ

須藤靖 東京大学教授(宇宙物理学)

 唐突に高等教育無償化の議論がとりざたされ始めた。そもそもそれが具体的に何を指しているのかすら私にはわからない。にもかかわらず、憲法に明記することが提案されているらしい。憲法9条改正と抱き合わせることで改憲論議の賛同者を増やしたいという姑息な意図が見え見えである。

 私は、憲法9条をそのままにした上で自衛隊の存在を認めること自体は十分検討に値すると考えているので、9条と絡めた議論をするつもりはない。丁寧な国民的議論を行うことには賛成である。しかしながら、2020年という時期の設定、さらには、全く無関係な高等教育無償化との抱き合わせ商法には、反対を通り越して、情けなさを禁じ得ない。

 提案の背後にある戦略に違和感をもつ方が少なくないにもかかわらず、高等教育無償化という方向性自体はかなり支持されているような印象を受ける。そこで今回は、抱き合わせ商法という問題点ではなく、、なぜ高等教育の一律無償化に賛成しかねるのか、その理由を述べてみたい。

高等教育を受ける割合は適正か

 文部科学省の統計要覧 によれば、2016年の大学学部在学者は257万人。現在の18歳人口は約120万人であるから、大学進学率は約50%ということになる。学生一人当たり必要な経費は、専攻によっても授業形態によっても大きく異なるため、推定は容易ではないが、平均的な私立大学の学費を120万円とすれば、年間3兆円となる。現在の国からの年間支援額は、国立大学運営費交付金として約1兆円、私立大学等経常費補助金が約3000億円である。これらを学生の学費以外の補助金であるとして合計するならば、年間4兆円前後の予算が必要となる。大雑把な推定なので±1兆円程度ずれるかもしれないが、以下の議論にはあまり影響しない。

2017年度の東京大学の入学式
 そもそも日本国民の何割が大学に進学すべきなのか。これは正解があるかどうかわからない難問であるものの、私は現在の50%という値ではまだ十分でないと考えている。社会構造の急速な変化に対応できるだけの能力をもつ人材を養う必要性はいうまでもないが、それとは逆に高校で学んだ内容が完全に身についている学生が必ずしも多くないという現実からも目を背けてはなるまい。

 偉そうに言っているのではなく、私自身もそうだからである。立場上、高校理科の教科書を眺めていると、そのレベルの高さに驚かされる。その結果、全員がここまでしっかり理解できているならば大学の講義は楽だなあと安心するよりも、高校3年間でこれらを全て理解できる学生が果たしてどの程度いるものだろうかと心配になってくる。 じっくり時間をかければ理解できたはずの学生が、未消化のまま社会に出ることになれば、本人にとっても社会にとっても損失でしかない。

無償化が生み出すモラルハザード

 過去に比べて最近の学生の精神年齢はかなり低い一方で、国民の平均寿命は大幅に伸びている。別に焦る必要はない。もっと時間をかけて学んでから社会で活躍してもらうほうが本人にも社会にもプラスとなるはずだ。当然、大学で教える内容や役割にも多様性を認めるべきだ(高校の補習のような講義をしている大学の存在が問題とされたことがあるが、なぜそのような状況になっているのかを考えれば、むしろ良心的な大学であると解釈することも可能である)。

 さらに、昨今の国民間の経済的格差の増大により、経済的理由で大学進学を断念する学生が多くなっているとすれば、経済的弱者の固定化にもつながり、社会の活力が失われてしまう。したがって、経済的に恵まれていない家庭の学生が高等教育を受ける機会を保証することは、国全体の投資としてもプラスである。

毎年1月にある大学入試センター試験
 しかしながら、教育に限らず、一律に無償化してしまうとある割合でのモラルハザードは避けがたい。 現在でも、経済的に恵まれている家庭の場合、とりあえず大学に進学させておこうと考えている割合は決して少なくなかろう。完全無償化の先には、別の大学へ再入学するためにとりあえず入学する(させる)選択数は増大するであろう。さらに留年学生の増大や長期化も懸念される。学生の勉学への動機を保つ上では、一律無償化はむしろマイナスになろう。現在の日本において、
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