受験エリート官僚を反面教師に、世界に通じる人材を育てよう
2017年07月24日
「国際化とは何か」については識者の間で意見が分かれる。文部科学省は、子供の時から英語を聞き、英語をしゃべる訓練をしっかりする必要があると言い、「小学校から英語教育だ」と結論する。中国ではずいぶん前から行われているが、私は成功しているとは思わない。
国際化が日本人に英語能力を求めることは当然としても、小学生に勉強させる必要があるだろうか。そもそも、興味もないことを押しつけるというのが日本や中国の悪しき伝統的教育である。その教育は受験エリートと勉強嫌いな若者しか生まない。むしろそのような教育のあり方こそが国際化を阻んでいる。
それよりも教授(教え授ける)という教育のあり方を改革し「子供・若者の自発性・自立性を育てる」教育を目指すべきだ。
常に自分の意見を見いだし主張する「自立性」は国際舞台で活躍する個人に不可欠な資質だ。そして、自立した若者が世界に出て行く過程で英語力が求められ、彼らに英語を勉強する動機を喚起する。自立性教育についてドイツの教育の実態を見ながら、なぜ国際化に必要かを述べたい。
私は日本の大学で国際化を10年ほど推進してきたが、初めから「英語教育を強化すれば国際化が達成できる」などと思ってはいなかった。私自身、中学高校時代、英語を勉強したいという意欲を持ち得ず、苦手であったからだ。語学など必要になって勉強すればよいのであって、動機もないのに覚えることはナンセンスと考えていた。
国際化の時代、日本の若者は、欧米先進国の人たちとタフな議論が求められる。それができる若者は日本の知識偏重教育では育たない。2年前に独に移住しドイツの若者と話をしていて、教育の違いが若者の国際性に大きく影響していることを実感した。
このような受験エリートが英語に堪能だとして、先進国のエリートとグローバルな時代の国家像や国際連携を議論しても、尊敬し合う国際人脈を形成することなど不可能である。
歴史を振り返っても、官僚が革命を起こした例はない。官僚は体制を維持するための人間であり、徳川幕府の末期はとうとう機能しなくなり、最後は将軍慶喜の命も、赤貧の中で自学自習してきた勝海舟に託さなければならなかった。
グローバルな時代、国際的人脈つまり個人と個人の信頼関係を構築できる人材を日本が育成しているかが問われる。そのためには知識偏重の受験エリートに英会話力を付加させたとしても根本的に不可能である。
知識(記憶)偏重のエリート教育は、隋の時代から清朝まで1300年も続いた中国の官僚登用試験「科挙」に起源がある。科挙に合格して官僚になることで地位・名声・権力を獲得し、それをもとにして大きな富を得ていた。まさに18才の大学受験で未来の出世が決まる霞ヶ関の受験エリートたちに重なる。
同時に、このような官僚養成は、西洋に追いつけ追い越せの富国強兵を明治政府が実施するために開学した東京帝国大学に始まる。帝国陸海軍も昭和には官僚化が進み、卒業年次と成績順が実戦での能力より出世に優先した。日本の悪しき制度のはずが先の戦争を自ら総括していない我が国には脈々と生き続けている。
今や、「追いつけ」の時代を過ぎたのに未だにそういう人材に国家を任せる日本という国の制度疲労が起きている。それが、経済バブル後の失われた30年の要因の一つであることは明白である。
今、日本に求められているのは「自立性を育む」教育理念へのパラダイムシフトである。よく言われているように、国際化にはコミュニケーション能力が必要である。つまり、課題に対して、
という能力を身につけることだ。
ドイツの大学生の指導をしていると、何を聞いても返事をしてくる。そこで「君たちは何故、そんなにコミュニケーション能力があるのだ」と質問した。色々な意見が出たので私なりに整理すると、
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