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低線量放射線の健康影響に関する迷信

不十分だった専門家の説明、刷り込み続けられる遺伝的影響への恐怖

多田順一郎 NPO法人「放射線安全フォーラム」理事

 筆者は、現役時代、医療機関や研究機関で長らく放射線防護に携わり、福島第一原子力発電所の事故を機会に、被災地の方々に何度も放射線の健康影響についてお話しするようになりました。被災地には、さまざまな立場で支援活動する専門家が大勢出入りし、放射線の影響に関する説明をなさいました。そのようにして経過した6年余りを振り返ってみると、人々の低線量放射線の健康影響に関する理解には、どこか歪んだものが残ってしまったように思われてなりません。

 この「歪んだ理解」のうち、とくに甚だしいものは、放射線の確率的影響と遺伝的影響に関するものです。それらの歪んだ理解は、人々に謂(いわ)れのない不安をもたらし、災害から立ち直ろうとする人々の足を引っ張っています。人々がとらえられた誤った理解は「迷信」と呼ぶべきでしょう。筆者の舌足らずな説明がこうした状況をもたらすことに少しでも関与していたとすれば、慚愧(ざんき)に堪えません。本稿では、低線量放射線の健康影響に関する迷信の正体を白日の下にさらし、退治する方法を考えてみることで、筆者の責任を少しでも果たしたいと思います。

1. 確率的影響に対する誤解を招いた理由

 そもそも、低線量放射線の確率的影響とは何でしょうか。

 放射線防護では、放射線の健康影響を放射線組織反応(確定的影響)と確率的影響とに分類しています。前者は皮膚傷害(放射線やけどや脱毛など)や血球数の減少などを含み、ある量(閾値)以上の放射線を受けたときに発症します。そのため、これは受ける放射線の量を閾値以下に制限することで、完全に防ぐことができます。

 放射線防護では、この閾値より少ない放射線を受けた場合にも、がんや白血病が誘発される可能性を用心深く配慮しています。放射線の人の健康に与える影響に関しては、原爆の放射線を受けて生き延びた方々に対する70年を越える健康追跡調査以上に、統計学的な解析力を持つデータは存在しません。しかし、原爆線量が実効線量で約100 mSv(ミリシーベルト)より少ないと、がんや白血病が増加しているか否か、統計学的にも判定することができません。ところが、この影響を見定め難い低線量領域こそ、通常の放射線作業で受け得る放射線の量なのです。そのため、放射線防護は、そうした低線量の領域で、「がんや白血病の誘発の可能性」に対処せざるを得ません。

 そこで、放射線防護では、がんや白血病の誘発を「放射線の確率的影響」と名付け、受けた放射線の量(実効線量)に比例して起こり閾値が存在しないという枠組み(直線閾値なしモデル=LNTモデル)で影響の程度を評価し、それを「合理的に達成できる限り小さく保つ(ALARA:As Low As Reasonably Achievable)」ことを目指します。逆に言えば、放射線の確率的影響は、放射線防護を最適化する際にLNTモデルに基づいて評価される仮想的な放射線影響に他なりません。

 放射線生物学の研究者にお伺いすると、放射線に対する生物の反応には、どこかに閾値があると考える方が合理的だ、とおっしゃる方が大半のようです。中には、LNTモデルは間違いであると断言なさる方もいらっしゃいますが、放射線防護の最適化のための手段としては、これ以上に簡便なシステムを構築することは難しそうです。ですから筆者は、LNTモデルも確率的影響という概念も、放射線防護の最適化の道具としてならば適切であると考えています。

 残念なことに、筆者たちの業界の人間であっても、仮想的な放射線影響と現実の健康影響の区別を忘れてしまう人をしばしば見かけます。事故から間もない時期に、文部科学省が示した校庭の利用に関する判断基準に対して、「子供たちに年間20mSvも被ばくさせるのは可哀想だ」と専門家が涙を流したのは、そうした混同の典型であったと言えるでしょう。

小学校の校庭で汚染の状況を調べる福島県職員=2011年4月

 放射線防護の最適化では、実効線量の値が、防護の選択肢を決める際の目安になります。しかし、その実効線量から算出される確率的影響は、最適化のために評価された仮想的な健康影響に過ぎません。しかも、その評価上の影響の絶対値がどれ程のものか、という議論がしばしば置き去りにされてしまいます。

 20mSvと1mSvの放射線曝露は、放射線防護の最適化の立場では、がんを誘発する可能性が名目上0.1%増加するか0.005%増加するかの違いがあります。相対的には大きな違いのように見えますが、これら名目上の影響の「絶対値」は、いわばドングリの背比べで、仮に現実の影響だとしても問題にするのがおかしいほど小さなリスクです。業界の人間の中に、「低線量放射線の影響はよくわかっていない」などと誤解を招きかねない保身的な説明をしたり、仮想的な健康影響と現実の健康影響の違いや、評価された名目上のリスクの小ささを十分説明し切れていなかったりする人が少なからずいたことが、要らざる不安を引き起こしてしまったように思われます。

 そのような目で国際放射線防護委員会(ICRP)の刊行物を見てみると、

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