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「ブレードランナー」で生命や科学を語ろう

新作『ブレードランナー2049』が深化させる「人間とは」の問題提起

粥川準二 サイエンスライター

 筆者は中学生のとき、映画館で『ブレードランナー』を観て、衝撃を受けた。テレビで放映されたものを録画して何度も観て、大学生のときにはディレクターズ・カット版を、2007年にはファイナル・カット版を複数回映画館で観た。体を壊して休業していたときには、5枚組DVDセットの各バージョンを何度も観た。もちろん、原作のフィリップ・K・ディック著『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(早川書房)も、この35年間繰り返し読んだ。

 『ブレードランナー』は、筆者が生命科学や生命倫理に興味を持ったきっかけの1つだ。

 非常勤講師をしていた東京海洋大学や明治学院大学では、この映画を教材として使ったこともある。後述するような筆者の体験を学生にもしてほしいからだ。なかには、そんな筆者の期待とは別に、今のアニメやゲームの「元ネタ」がわかった、と言う学生もいて面白い。

 そして今後は学生たちに、もう1本をセットで観ることを勧めることになるだろう。続編『ブレードランナー2049』だ。10月27日に公開される。筆者は試写会に通って2回鑑賞した。続編もまた、何度観ても飽きないうえ、観る者たちの思考を強く刺激する傑作である。

人間と人間でないものとの違いは?

 前作『ブレードランナー』が観客に提起したことの1つを要約すれば、「人間と人間でないものとの違いは何か?」という問いになる。たとえばこの映画では、人造人間であるレプリカントを見分ける方法として、共感能力の有無が描かれている。ブレードランナーはレプリカントの疑いがある者の瞳孔などを専用の装置で観察しつつ、動物や他人への共感を探る質問を投げかける。主人公デッカードはこの方法で、ヒロインのレイチェルがレプリカントであることを見抜く。

拡大『ブレードランナー2049』で、枯れて死んだ木を見つめる主人公K。この時代に「本物の木」は珍しいものとして描かれている

 しかしながら、レイチェルやロイといったレプリカントたちは、自身や仲間の境遇を思うとき、きわめて人間らしく動揺する。ロイたち逃亡レプリカントは、仲間どうしで共感し合い、存在しない過去の記憶を埋め合わせるために疑似家族を形成しているらしいことも、何度か観ればわかってくる。彼らと比較して、レプリカントを「スキンジョブ(人間もどき)」と言い放つブライアン署長や、丸腰で逃げる女性レプリカントの背中を容赦なく撃つデッガードは、人間らしいといえるだろうか。

 そしてこの「人間と人間でないものとの違いは何か?」という問いは、『ブレードランナー2049』でより深められている。続編で新たに付け加えられた重要な要素の1つは、「生殖」という問題だ。それは、主人公のブレードランナー「K」の出自に深くかかわるほか、前作でエンディング場面になったデッカードたちの逃避行の「その後」が描かれるなかで、作品全体の謎を解く大きな鍵となる。そしてある殺人レプリカントに涙を流させる。生殖をめぐって愛や嫉妬といった人間らしい感情がレプリカントにも生まれることが示唆される場面だ。

生命倫理学を超えるSF

 「人間と人間でないものとの違いは何か?」。映画が提起してきたこの問いを、筆者が担当する講義での表現に言い換えると、「倫理的な配慮の対象になるものとならないものとの違いは何か?」ということになる。

 受精卵は胎児に至る過程で、いつ人間になるのか。実験や肉食の対象とすることが認められる動物と認められない動物とをどのように区別するのか。脳死や植物状態となった者は生きているとみなすべきなのか死んでいるとみなすべきなのか。そしてもしAI(人工知能)やそれを搭載したロボットが人間と同じように応答するならば、それらに「人権」を認めるべきか否か。

 生命倫理学と呼ばれる学問がそうした問いを検討しつづけてきたが、SF映画はそれを優れたエンターテインメントに昇華させてきた。とくに『ブレードランナー』以降、この流れが顕著である。

拡大『ブレードランナー2049』の一場面。ウォレス社に飾られる試作品レプリカントは、『エイリアン』シリーズの「エンジニア」にも似ている
 たとえば、ノーベル文学賞が決まったカズオ・イシグロの原作を映画化した『わたしを離さないで』は、臓器を摘出されて人生を終えることを運命づけられているクローンの若者たちを描いた作品だが、彼らの青春群像は世間の人々と変わらない。映画は、主人公が自分たちと自分たちの臓器によって救われた人々との違いについて疑問を投げかけるモノローグで終わる。

 マンガ、アニメ映画、TVアニメ、実写映画にまたがる『攻殻機動隊』では、登場人物たちがサイボーグである自分の存在を、人間や人工知能と比べながら確かめ続ける。とくに劇場版の2作目『イノセンス』は、ビジュアルもストーリーも『ブレードランナー』に似ている! 新しい『エイリアン』シリーズである、リドリー・スコットが監督した『プロメテウス』と『エイリアン:コヴェナント』では、神になりたがっているロボットが登場するが、彼の欲望は人間、いや人類を彷彿とさせる。なぜか『ブレードランナー』とよく似たカットやセリフもある。

覆される理解、そして対話へ

 『ブレードランナー2049』では、登場人物や作品世界についての観客の理解が、次々と覆される。とくに主人公は、予告編ではまったく知らされていなかった設定であることが冒頭でわかり、やがて正体が明らかになるにつれ、意外な展開がある。

 観客の理解を次々といい意味で裏切り続ける、というスタイルは、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が『灼熱の魂』や『プリズナーズ』などの過去作からずっと得意としてきたものだ。このスタイルは、観客たちに考えることを強いることになる。このことも若者たちに観てもらいたい理由だ。

 筆者が『ブレードランナー』を繰り返し観てきた理由は単純で、言葉で表現できないほどの衝撃を受けたにもかかわらず、なかなか理解できなかったからだ。実は今でもすべてを理解できているとは言い難い。この映画が難解である理由は今ならわかる。1つのカット、1つのシーンに入っている情報があまりに多すぎて、その結果、作品自体がマトリョーシカのような多層構造になっているからであろう。そのため観るたびに発見があり、決して飽きないのだ。

 デッカードの部屋にある古びたモノクロ写真。彼の同僚ガフがつくる3つの折り紙。さまざまな言語で書かれたネオン広告……。一度観ただけでは見過ごしかねない細部のそれぞれに意味がある。いや、意味があるから考えろ、と映画は観客に促す。小説も映画も、いい作品は読者や観客に考えることを強いるのだ。そんな力を持つ作品を、若者たちに勧めないわけにはいかない(なお筆者は、町山智浩著『ブレードランナーの未来世紀』(洋泉社)を読んでからやっと、この映画をある程度理解できた気になったことを告白しておく)。

 前作のこの心地よい難解さは、続編でも健在だ。主人公Kを襲う女性レプリカントと、Kを癒す美少女AIには、意外にも大きな共通点があり、対の存在になっている。このことは、2度目の鑑賞で気づくことができた。

 『ブレードランナー』を観ていない人、内容を忘れてしまった人は、ぜひ観てから『ブレードランナー2049』をご覧いただきたい。そして両作の魅力を周囲に、とくに若者たちに伝えてほしい。生命や科学、社会について、これまでにない対話が始まることを期待している。


筆者

粥川準二

粥川準二(かゆかわ・じゅんじ) サイエンスライター

1969年生まれ、愛知県出身。国士舘大学、明治学院大学、日本大学非常勤講師。「ジャーナリスト」や「社会学者」と呼ばれることも。著書『バイオ化する社会』『ゲノム編集と細胞政治の誕生』(ともに青土社)など。共訳書『逆襲するテクノロジー』(エドワード・テナー著、山口剛ほか訳、早川書房)など。監修書『曝された生 チェルノブイリ後の生物学的市民』(アドリアナ・ペトリーナ著、森本麻衣子ほか訳、人文書院)。

 

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