反原発の立場からみても、科学技術に対する思慮不足が透けて見える
2017年10月31日
唐突な解散総選挙で何が変わったかと言えば、改憲という2文字の現実味が増したことだろう。与野党の勢力分布こそ代わり映えしないが、野党のなかで憲法の見直しを前面に押しだす政党の議席数がふえた。与党はもともと憲法を変えようとしているから、改憲の発議や国民投票の日程が取りざたされる日は近いだろう。
ここで私が論じようと思うのは、9条の改定によって日本が軍事大国への道を突き進むのではないか、という懸念ではない。むしろ、改憲の口実に科学がらみの案件がしばしばもちだされるのが、科学記者経験者として気になってしようがないのだ。環境権の導入しかり。生命倫理条項の新設しかり。当欄では4年前、「科学を改憲のダシに使うな」(2013年5月3日付)という小論を書いたことがあるが、この傾向はますます強まっている。
今回の衆院選では、希望の党が「原発ゼロを憲法に明記することを目指す」という政策を掲げて選挙戦に臨んだ。「政権交代が起きても原発ゼロの方針が変わらぬよう」に手を打っておくのだという。これは、改憲のハードルを下げる効果で言えば絶妙の変化球だ。護憲派には強硬な反原発論者が相当数いると思われるが、憲法によって原発を廃絶すると聞いて護憲のほうの旗を降ろす人が出てきても不思議ではない。
一般論として、科学技術にかかわる事柄は拙速に憲法に書き込むべきではない、と私には思われる。技術に対する評価は時代とともに移り変わるものであり、ある時点の判断を条文に落とし込むと、あとあと身動きがとれなくなることがあるからだ。技術そのものが、たゆみない研究開発で次々に更新されていくということもある。科学技術は、「頑固」な憲法の手に負えない。ふつうの法律で随時適切な規制をしていくほうが賢明だろう。
もしそれでも、科学技術を憲法で扱おうというなら、基本的人権の尊重などと同様、大構えの思想として明文化することだ。「原発ゼロ」についても、そういう書き方がないわけではない。
だが残念なことに、今の日本社会はこの思想を共有しているとは言い難い。私のように原子核に手をつけることそのものに危うさを感じる人([1])がいる一方で、科学技術は自然界の未踏領域を次々に切りひらいてきたのだから核反応も制御できると考える人([2])がいる。あるいは、なるべくなら原子核に手をつけるのは避けたいが、エネルギー需給の安定のためには一部の原発を残しておいたほうがよいと考える人([3])もいるだろう。しかも、それぞれの意見が生涯ぶれないでいる保証はない。たとえば、[2]の人が科学技術の内在リスクに気づいて[1]に心変わりすることはありうる。[1]の人がエネルギー源の分散化を言いだして[3]に転向することも考えられる。
そもそも原子力をめぐる戦後史を振り返れば、世論そのものが大きくぶれてきた。
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