膨大なデータを集めて処理した偉大な「情報提供者」
2018年01月31日
型破りな人生を送りながら、自然や文化の幅広い分野の調査を続けた南方熊楠(1867〜1941)。「森羅万象の探究者」「近代を乗り越える思想家」「自然保護の先駆者」などと評されてきたが、果たしてそうだったのか。ここ10年ほどの研究で、そうした見方は必ずしも熊楠を正しく捉えていないと考える研究者が増えてきた。東京・上野の国立科学博物館(科博)で開かれている企画展「南方熊楠―100年早かった智の人―」(3月4日まで)では、そうした考えに沿った新しい南方熊楠像が打ち出されている。企画に当たった人たちの描く熊楠像を探ってみた。
自然科学の立場から熊楠を見ると、変形菌(粘菌)の研究者だったというイメージが強い。1908年に日本産変形菌の目録を発表しているし、新属新種の発見もしている。和歌山県を訪れた昭和天皇へ進講した際には変形菌の標本を贈った。ただ科博名誉研究員の萩原博光さんは「一番集めたのは微細藻類で、きのこなどの菌類も多い。そのほか地衣類、大型藻類も集めた。しかし、これらは実際には一つも成果が発表されていない」と話す。自然科学の分野では、当時で言う隠花植物(花をつけない植物)全般に相当な興味を持って野外を歩き、優秀な調査者、採集者だったようだが、ただひたすら標本を集め、記録を残すことに励んだ。菌類は米国で指導を受けたこともあり、自分の手元に詳細な図譜(スケッチとメモ)を残したのだが、それ以外は集めた標本を後世に委ねる形になった。
これについて、少し熊楠を知る人なら、「でも、あの科学誌のネイチャーに50本以上も論文を発表したのでは?」と疑問に思うだろう。それに対して関西大学人間健康学部准教授の安田忠典さんは「あれは今の次元で言う論文ではなくて、研究メモ程度のもの。近代的な自然科学は仮説を立て、それを実験や観察で検証していくものだが、そうした研究を熊楠はしていない」と指摘する。その上で、大英博物館図書館へ出入りしていた時期の熊楠をこう語る。「あそこは当時、世界中で本などが一番集まる図書館。そこで雑誌や新聞なども含めた多様な情報を集め、『抜書』(ぬきがき)という形のメモをノートで52冊もまとめた。そして、そうした資料をもとに書いた記事を発信し続けた」
では熊楠は、集めた情報から原稿を書く過程で、記憶やメモをどのように扱っていたのだろうか。
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