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ヒトの脳を知ることが、人工知能の発展を刺激する

神経細胞ネットワークの3次元図を描く「コネクトミクス」の貢献

北原秀治 東京女子医科大学特任准教授(先端工学外科学)

 ガラケーと呼ばれた携帯電話は、ただ電話番号を登録し、メールを送受信する機械だった。使いやすくて便利ではあったが、機械自身がひとりでに成長して、性能を高めるなんてことはなかった。ところが、その後に登場したスマホと呼ばれる「パソコン縮小版携帯電話」は、自分で学習して次第に賢くなっていく。

 スマホに搭載されている各種アプリは、利用者が何か特別な指示や設定をしなくとも、勝手にあれこれを学んでいく。実際、SNSに載せられた写真の顔認証などはどんどん精度を上げてきたし、音声認識や自動翻訳なども使い始めたころに比べてずっと優秀になっただろう。これらは人工知能の成果だ。年齢とともに物覚えが悪くなる人間の脳とは違って、人工知能が取り入れられた機械は、時間がたてばたつほど優秀になっていく。

 人工知能とは何か。なぜ急速に発展を遂げられたのか。もちろんコンピューターの大幅な性能向上が背景にあることは言うまでもないが、さらには、人間の脳をめぐる最新の研究成果が貢献していることが重要だ。なかでも「コネクトミクス」という聞きなれない分野の研究が注目され、その成果が積極的に取り入れられている。

脳の「配線図」をひもとく

 新タイプの脳波計などを開発している大阪大学発のベンチャー企業「PGV」の最高科学責任者で、ボンド大学客員准教授などを務める若手脳神経学科者の水谷治央博士。博士がかつて在籍していたハーバード大学の研究室では、電子顕微鏡を駆使して、脳の神経ネットワークを三次元で再構築する研究に取り組んでいる。コネクトミクスだ。

コネクトミクスによって正確に再現された3次元の神経細胞ネットワーク
 脳のなかには無数の神経細胞があり、一つひとつの神経細胞は軸索という細胞質を長く伸ばしている。隣の神経細胞同士とつながったり、筋肉や臓器と結びついたりして、緻密で精巧なネットワークを形成している。

 その姿はまるで宇宙から見た地球上の発電所と送電線のつながりのようだ。このミクロの世界を、1千倍から数万倍まで拡大できる電子顕微鏡を使って観察する。撮影した何百枚もの画像を、特別なソフトをつかって3次元構造に描き直し、それぞれの神経細胞がどのように繋がり合っているのかを再現する。

 生物が持つすべての遺伝情報の総体は「ゲノム」と呼ばれ、たんぱく質(プロテイン)の全情報は「プロテオーム」と呼ばれる。同様に、あらゆる神経細胞の接続情報が「コネクト−ム」であり、その成果や研究がコネクトミクスだ。一見、純粋に医学的な研究であるが、これが人工知能の発展に大きく寄与しつつある。

ディープラーニングの発展と壁

 初期の人工知能は、文法のようなルールを与えることで知的な働きを再現しようとした。あらゆる知識をバラバラに分解してパターン化し、木のように構造化することで脳の働きを再現することを目指したが、それほどうまくはいかなかった。ルールを与えるだけで人間のように音声や画像を認識させることは難しかったのだ。

 その後、「神経細胞(ニューロン)ネットワーク」のモデルが取り入れられる。人間の神経細胞のつながりと同じような動きを再現させ、統計学的な手法を使って精度を高める方法だ。だが人間のように膨大な数の神経細胞ネットワークを機械で再現することは困難で、なかなか精度は上がらなかった。だがやがてコンピューターの性能が向上してきたことで、この多層ネットワークを機械でもある程度は再現できるようになる。これが近年の人工知能ブームの背景だ。

 ブームを支えているのが「ディープラーニング」と呼ばれる技法である。人間が日常的に行なっている「学習」と同じような作業を、機械にも模倣させる手法だ。人の脳内にある何層ものネットワークの深い(ディープな)重なりを、コンピューター上でシミュレーションすることによって、脳の働きをマネさせている。

 例えば、人工知能が人を相手に将棋を指すと、最初はなかなか人間に勝てない。ところがディープラーニングによる学習を重ねると、人間が積んできた経験がコンピューターに取り込まれ、さまざまな戦法が備わり、遂には人間が勝てなくなるのだ。

 しかし今のところ、このディープラーニングにも壁があり、まだまだ本物の脳をそっくり模倣することはできていない。そこで今後は、人工知能をコンピューター上のプログラムとして動作させるだけでなく、人の神経細胞ネットワークの形態そのものを模倣したチップを作るなどして、より人間に近づけることが模索されている。つまり、プログラムというソフトウェアによって脳を模倣するだけでなく、機械というハードウェアにおいても脳に接近するわけだ。

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