論争大好き、でも聞く耳をもち、退(ひ)くべきときは退く人だった
2018年03月26日
スティーブン・ホーキングが亡くなったと聞いてもピンとこない。著書を読み返すと、今まさに生の講演を聞いているような錯覚に陥るからだ。それは、故人となったミュージシャンの演奏をCDで聴いていてライブ会場にいる気分になるのと似ている。なぜ、そう感じるのか。その秘密を一つのエピソードから探ってみようと思う。
いきさつはこうだ。1985年5月、京都大学で催された講演会で、来日中の博士は「時間の矢」の話をした。コーヒーカップが割れる映像を逆回ししてカップが元に戻る様子を見せ、「宇宙が収縮を始めたら、熱力学的な時間の向きは逆転し、無秩序から秩序へ向かう」と述べた。ちなみにこのとき、博士はすでに筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒されていたものの、声はまだ健在だった。付き添いの青年が聞きとりやすい英語で伝え直してくれたが、博士自身のふりしぼるような肉声から強い情熱が感じられた。科学部員になって2年足らずの私は、それに心を動かされて記事にした。
インタビューが終わり、博士と別れてから、私は急に不安になった。5年前、あれほど博士の心をとらえていた「時間の矢」はどこへ消えたのか。もしかしたら、自分はあのとき聞き間違いをしたのではないか――。それで旧知の宇宙物理学者に、恐る恐る「時間反転の話はどうなったんでしょう?」と尋ねてみた。苦笑いとともに返ってきた答えは「宗旨替えしたんですよ。悪びれず、間違いは認めるほうがよいのだと堂々と言っているところはさすが」。それを聞いて、ちょっとほっとしたことを覚えている。
実際、博士の代表作『ホーキング、宇宙を語る』(林一訳、ハヤカワ文庫NF)を開くと、その顛末(てんまつ)がしっかりと記されている。要約すればこうだ。
自分は、宇宙が収縮して再崩壊するならば膨張期の時間が反転して無秩序の状態が秩序を取り戻すと考えていた。だが、研究仲間のドン・ページが異論を唱えた。宇宙には始まりも終わりもないとする無境界条件は、収縮期の時間反転を求めていないという指摘だ。教え子の学生レイモンド・ラフレームも、複雑な理論モデルを用いて宇宙が崩壊するときの様子を調べてくれた。その結果、自分が間違っていたことに気づいた。間違ったことは認め、きちんと文章にしておいたほうがよい――。
ここで「間違った」というのは数理のうえのことであり、実際の宇宙がどうかという点での当否とは直結しない。ただ、数式を操る理論家としては「しまった」ということがあったのだろう。博士は、こうしてベストセラーのなかで自らの失敗談を告白したのだった。
では、その間違いに気づいたのはいつだったのか。それを知るためにドン・ページさんについてネット検索を試みると、現在はカナダのアルバータ大学で宇宙論の特別教授を務めているらしいとわかった。著作リストに「宇宙が再崩壊するならばエントロピーは減少するか」という論文がある。エントロピーの減少は無秩序から秩序への移行を意味するので、ここに「指摘」が含まれているのだろう。
そこで、この論文のアブストラクト(要旨)を見つけて読んでみると、ホーキングの見解を引きあいに出して、計算によれば宇宙が再崩壊過程に入っても熱力学的な時間の矢は逆転しないと論じている。発表されたのは、米国物理学会誌『フィジカル・レビューD』。1985年7月の刊行だ。察するに、博士は京大講演のころにページさんの最新成果を聞き、自ら再検討したのちに考えを改めたのだろう。京大講演は、博士が翻意する直前だったのかもしれない。
もう一人の立役者ラフレームさんも、今はカナダ・ウォータールー大学の教授。大学の公式サイトをのぞいて、私の頬は思わず緩んだ。彼の人物紹介欄に「ラフレームとドン・ページは、宇宙収縮期の時間反転をめぐってホーキングの心を変えさせた張本人」とあったからだ。この話が『ホーキング、宇宙を語る』に出てくることも、ちゃんと書き添えられている。この紹介文は第三者が書いた形式をとっているが、そうだとしても記述からは本人のドヤ顔が感じとれる。
「時間の矢」の失敗劇からは、ホーキング流の理論研究の真髄が見てとれる。
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