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やせたソクラテスはどこにいる?

間違いが間違いを生みつづけた半世紀前の名セリフ

黒沢大陸 朝日新聞大阪本社科学医療部長

 卒業式シーズンになると、思い出す話がある。四半世紀以上前の自分の卒業式。全学の卒業式が終わり、学科の教室で卒業証書が渡された。そのときのやり取りだ。

 教室主任だった教授が卒業生への餞として、「かつて東大の総長が卒業式に、ふとった豚になるより、痩せたソクラテスたれ、と言いました。この言葉を君たちに贈ります」と話した。当時は、バブルのまっただ中。耳にしたことのある言葉だったけれど、「なるほど、いまの時期にこそ胸に置かなければいけないかも知れない」などと考えながら聞いていた。

 ところが、教室主任の教授の話が終わると、別の教授が憤然と立ち上がり、こう言った。

拡大フランスの画家ジャック=ルイ・ダヴィッドが1787年に描いたソクラテス
 「いや、これが東大総長の言葉でなかったら、誰がこれほど感心しただろうか。権威ある人の言葉に惑わされるな、これが、この話の教訓です」

 最初の言葉を素直に受け止めようとしていた自分にとって強烈だった。思えば、自然科学を学び、権威ある学者が打ち立てた学説もうのみにせずに疑え、と教えられたことを思い出した。この考え方は、学生や研究者、様々な分野の社会人にとっても必要なこと。新聞記者にしても、まさに基本中の基本の考え方。権威づけられた話をうのみにしそうになるときに、この言葉を思い出すようにしている。

実は読み飛ばされていた言葉

 この話、学生たちの前で話す機会に使おうと、後年、いろいろ調べてみた。

 すると、実は単純な話ではなかった。まず、発端の1964年3月28日の東京大学の卒業式、当時の大河原一男総長が告辞で述べたと言われた言葉、「ふとった豚は・・・」は、大河原総長のオリジナルではなく、哲学者のJ・S・ミルの言葉を参考にしたもので、総長は告辞の原稿に「ミルは『ふとった豚であるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言った」と書いていたが、この部分は読み飛ばしてしまって、卒業式では話していなかった。

 それなのに、総長の言葉として広がったのは、「あらかじめ総長の原稿をもらって記事を準備していたマスコミがそのまま報道してしまったことが原因」とされていた。

 この部分を総長が読み飛ばした話は、結構有名な話で、その後、新聞記事でも「カメラのフラッシュがまぶしくて読み飛ばしてしまった」などと、いろんな記事やコラムなどに何回も書かれている。

もとのミルの言葉も違う

 その言葉から半世紀。2015年3月25日、東京大学の教養学部学位伝達式で石井洋二郎教養学部長が式辞で触れて話題になった。東大サイトにある式辞によると、「この発言をめぐっては、いろいろな間違いや誤解が積み重なっている」と言及している。

 第1の間違いとして、主語は大河内総長ではないという点。「作法にのっとった正当な『引用』です。ところがマスコミはまるで大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった。そして、世間もそれを信じ込んでそのまま語り次いできたというのが、実情です」と指摘している。

拡大最終講義をする東京大学の大河内一男総長=1965年1月
 第2の間違いとしては、ミルが言ったことと引用内容が違うという点。「ミル自身は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』とも『なりたい』とも、全然言っていない」、日本語訳では、「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」としたうえで、「大河内総長のほうがこれをまったく別の文章に改変してしまったとしか考えられません。たぶん、漠然と記憶に残っていた言葉を、自分の言いたいことと合わせて適当にアレンジしたのでしょう」と推定している。

 そのうえで、この有名な語り伝えは、大河内総長でもなく、ミルの言葉も不正確、卒業式で言ってもいない、三つの間違いが含まれている、と指摘している。

半世紀ぶりの間違い指摘も……

 石井教養学部長の式辞自体も、当時、話題になった。「ふとった豚、痩せたソクラテス」の話を持ち出した今日的な言及が注目された。

 間違いや誤解について言及したあと、「さて、そこで何が言いたいかと申しますと、」と続けている。 ・・・ログインして読む
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筆者

黒沢大陸

黒沢大陸(くろさわ・たいりく) 朝日新聞大阪本社科学医療部長

証券系シンクタンクを経て、1991年に朝日新聞入社。社会部、科学部、名古屋報道センターで、災害や科学技術、選挙、JR、気象庁、内閣府などを担当。科学医療部やオピニオン編集部のデスク、編集委員(災害担当)などを経て、2018年から現職。著書に『「地震予知」の幻想』、編著に「災害大国・迫る危機 日本列島ハザードマップ」、共著に「政治家よ 不信を超える道はある」など。

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