事件の「第2幕」を描くことで見えてきたものとは。本当の「主人公」はだれなのか
2018年04月10日
話題の映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」を見た。超一級の国家機密書類を入手したワシントン・ポスト紙の苦悩を描いている。「報道すれば、政権は新聞社をつぶすかもしれない」「ひるんで、スクープを報道しなかったら、社員からも社会からも見捨てられる」。同社の幹部は板挟みの中で決断を迫られる……。
新聞社などメディアの「決断」を支配するものは、たいてい「時間切れ」だ。時間に追いたてられ、不完全な議論の途中で締め切りを迎え、「エイヤッ」とばかりに決めざるを得ない。そこに、スクープへの興奮と失敗への恐怖が同居する。
そうした設定は一般的なもので、例えば映画「クライマーズハイ」(原作は横山秀夫の同名小説)もよく似ている。群馬県の架空の地方紙を舞台に、日航機墜落事故取材の混乱と奮闘を描いたものだが、ここでも地方紙の記者がつかんできた特ダネを報じるがどうかで、「時間切れ」まで悩み抜く。
「ペンタゴン・ペーパーズ」は大変に有名な出来事を、ほぼ正確に再現した映画だ。それも47年前(1971年)のことで、すでに歴史に定着している。なぜいま映画をつくったのか、それをどう見ればいいのか。
事実はこうだ。1969年、アメリカの民間のシンクタンク「ランド研究所」にいた軍事アナリスト、ダニエル・エルズバーグがベトナム戦争に関する国防総省(ペンタゴン)の秘密報告書、通称「ペンタゴン・ペーパーズ」を研究所から持ち出す。報告書は米国のベトナム戦争への関与を分析したもので、エルズバーグ自身も一部を執筆し、完成後(15部だけ印刷された)は分析を依頼されていた。
報告書には、ベトナム戦争に関してアメリカ政府が多くの政策的失敗を重ね、それを国民に隠してきた歴史が赤裸々に書いてあった。エルズバーグは「密(ひそ)かな分析ではなく、社会に知らせるべきだ」と考えた。
彼は文書を持ち出し、7千㌻にもわたる文書のコピーをつくり、上院議員らに持ち込む。だが、だれもが暴露にしり込みした。国家への反逆、スパイ罪に問われる可能性があったからだ。文書持ち出しから実に2年後、エルズバーグはニューヨーク・タイムズ紙(NYT)のニール・シーハン記者に持ち込む。シーハン記者は上司を説得し、3カ月の準備をして大型連載に踏み切った。
この映画では、エルズバーグによる文書の持ち出し、公表に向けての努力と失敗などは、時間経過を凝縮し、サラリと描かれている。メインはこれをNYTが報じたところからだ。
ワシントン・ポストとNYTは、激しいライバル関係にあった。ポスト紙の編集局長ベン・バラディー(トム・ハンクス)が、連載が始まる前、「ベトナムに詳しいシーハン記者が最近、何も記事を書いていない、おかしい」と、いぶかる場面などもある。
ところが、シーハン記者によるNYTの記事に対して、ニクソン政権は裁判所に記事差し止めを求めるという強硬手段に出た。NYTが続報を書けなくなったとき、エルズバーグはポスト紙に文書を持ち込んだのである。
それはポスト紙が最も欲していた文書だった。だが、それはまた、悩ましい“爆弾”でもあった。NYTが報道を禁じられた機密文書を、同じ提供者から入手して報道すればどうなるか? 社の幹部も個人的に訴追され、投獄される可能性が高い。
報道するか、しないか――。
議論のために残された時間はほぼ「1日」しかない。記事をつくる作業が大慌てで進む傍らで、激論が続く。「あと10時間だ」「2時間」。緊迫した言葉が飛び交う。
当時はベトナム戦争のまっただ中である。メディアは過去に起きたことを批判するだけにとどまらず、「いまベトナムで戦っている兵士の危険を増す」かどうかという観点からの議論にも備えなければならない。
ポスト紙の発行人(社主)キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は会社幹部の意見が割れるなか、決断をしなければならない。頼りない女性経営者と思われていたグラハムが目を泳がせ、不安の表情を浮かべる前で繰り広げられる白熱の議論。グラハムが覚悟を決めていく演技はハラハラドキドキ、さすが名女優だ。幹部たちは自分の意見をずけずけ言って、最後はグラハムにこういう。「あなたの決断だ」。
筆者(竹内)も、長い間、新聞社に身を置いていたので、こうした雰囲気はよくわかる。決断するテーマは、この映画のような大きな問題から小さな記事の掲載の可否までさまざまだが、時間が迫るなかでのドキドキする感じは同じようなものだ。
映画を見ながら私は、「何が彼女の決断を支えたのか?」を考え続けていた。彼女自身の個性、彼女を支える会社の幹部、他の新聞・テレビの動き、アメリカの社会、司法……。おそらく、グラハムの頭の中でも多くの要素がぐるぐる回っただろう。
私がいつも思うのは、責任者(この場合グラハム)の判断を支えるのは周囲の社員であり、判断した会社(ポスト紙)を支えるのは、社会全体だということだ。映画の中で編集局長(トム・ハンクス)が何度も「報道の自由を守る手段は、報道することだ」と口にする。いかにも強い言葉だが、その勇気を支える社会があってこその言葉でもある。
多くの人が、この映画はアメリカ社会の現状に対するスピルバーグ監督の警告だ、と指摘する。
すなわち、トランプ政権のもと、メディアと政治権力との関係が危険な状況にあるぞ、というメッセージであり、同じような状況にあった47年前、米国では何が起こり、何を守ったかを思い起こせ、ということだと。
そんなことを考えていると、4月初め、耳を疑うニュースが飛び込んできた。3月に全米の地方テレビ局のキャスターが一斉に「一部のメディアは、虚偽の記事を点検もせずに流している」「民主主義にとって極めて危険だ」というメッセージを読み上げたという。
アメリカで最大の193局を保有する保守系のメディア企業「シンクレア」が、それを読み上げるように強制したらしい。矛先は、CNNなど主要メディアだという。
とんでもない話だが、トランプ大統領は自身のツイッターで「シンクレアは、CNNやすべてがジョークのNBCよりはるかに優れている」と発言している。
「社会は時間の経過とともに進歩するわけではない」とつくづく思う。ベトナム秘密報告の暴露と、それに続く「ウォーターゲート事件」で質の高さを世界に見せつけたアメリカのメディアが、今や政権から乱暴に「お前たちはフェイクニュースだ」と攻撃され、揺さぶられている。「ポットは常に温め続けなければ湯が冷める」という寸言を思い出す。
映画は、今の日本の危うさも想起させる。
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