米山正寛(よねやま・まさひろ) 朝日新聞社員、ナチュラリスト
朝日新聞社で、長く科学記者として取材と執筆に当たってきたほか、「科学朝日」や「サイアス」の編集部員、公益財団法人森林文化協会事務局長補佐兼「グリーン・パワー」編集長などを務めた。2021年4月からイベント戦略事務局員に。ナチュラリストを名乗れるように、自然史科学や農林水産技術などへ引き続き関心を寄せていく。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
自然を愛した人たちによる100年前の日仏交流
日本国内で最古とされる昆虫標本が東京大学総合研究博物館の特別展示『珠玉の昆虫標本―江戸から平成の昆虫研究を支えた東京大学秘蔵コレクション―』(※1)で公開されている。江戸後期の旗本で本草学者でもあった武蔵石寿(1766~1861)が、天保年間(1830~44)につくったものだ。さぞ、大切に扱われてきたものと思われそうだが、実は大正初期には東京の古道具店に並んでいたというから驚きだ。
標本の詰まった7段の重箱の価値を店頭で見いだし、1913(大正2)年に東大へ贈ったのは当時の在日フランス大使館員だったエドム・アンリ・ガロア(1878~1956)だった。その名を知る人は少ないだろうが、栃木県の日光で見つけた新種の昆虫に、自身の名が残るほどの昆虫愛好家でもあった。ガロアがこの標本を救い出して東大へ持ち込まなければ、江戸時代の日本の虫たちの実物標本は、私たちが見られる形で現在まで残っていなかったのかもしれない。
この標本の製作者である武蔵石寿は、越中富山藩主で本草学・博物学に造詣の深かった前田利保 (1800~59)が主宰した研究会「赭鞭会(しゃべんかい)」の同人として活動した。還暦を迎えて隠居してからは、主に貝類の研究に打ち込んだ人として知られる。そして、この国内最古の標本(※2)を残したことが、もう一つの著名な業績となっている。その作製法は独特で、綿の上に置いた虫体にドーム状のガラス容器をかぶせ、底に和紙を貼ってある。ガラス容器は直径6.7センチの円形のものが90個近くあり、9×10.5センチと大型で楕円形のものも六つある。
針を使う西洋式の標本作成法は18世紀前半には確立していたようだが、それが日本まで伝わって記されたのは19世紀に入ってからだ。さらに日本で実際に針を使った標本をつくった確かな例は、1866年に博物学者の田中芳男(1838~1916)が、1869年のパリ万国博覧会に出品したもの。武蔵石寿がなぜ、このようなガラス容器を使った作製法を採用して標本をつくったのかは明らかでないが、独自に考案した可能性もあり、たいへん貴重なものだといえる。
ただ、ガロアが関わった標本の来歴について、今回の展示説明では特にふれられていない。そのあたりを管理に当たる同館の矢後勝也助教に補足してもらうと、「日本にとって大事なものだと考えて、たぶん買い取ったのだろう。最初は帝室博物館(今の東京国立博物館)に寄贈しようとしたが、面倒な手続きが必要だと言われて憤慨し、当時の東大教授だった佐々木忠次郎(1857~1938)の所へ持ってきた」のだという。佐々木は同僚で本草学に詳しかった白井光太郎(1863~1932)に調べてもらい、武蔵石寿の作製したものだと判明した。佐々木はこの標本について「本邦唯一の貴重なる標本である」と書き残している。
残念ながら、この標本には一部のガラス容器の破損や、虫食いによって失われた部分が認められる。矢後さんによると、昭和初期に撮影された写真に、すでに同様の劣化が認められるそうだ。東大が受け取るまで、すでに作製から70~80年程度が経過しており、その間に傷みが進んでいた可能性は高い。そもそも高温多湿の日本で、かびや虫の害を防いで生物標本を保存するのは並大抵のことではない。だからこそ、江戸時代には美しい動植物の姿を残そうと、博物画の図譜が数多く編まれた。武蔵石寿自身も、貝類の大部な図譜の作者としても知られる。従ってこの標本を受け取った東大では厳重な管理に努め、2012年には農学部から総合研究博物館へ所蔵替えして、現在に至っている。矢後さんは「重要文化財級の標本だと言える。過去に何度か公開されてきたが、傷みも見られるため、今回が最後の公開になるかもしれない」と話している。昆虫に興味がある人にとって、今の特別展示は必見のようだ。
では、こうした貴重な標本を救ってくれたガロアとは、どんな人だったのだろうか。
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