メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

没後200年・伊能忠敬で知る江戸天文学のすごさ

師匠の幕府天文方高橋至時はケプラーの楕円軌道論を理解していた

高橋真理子 ジャーナリスト、元朝日新聞科学コーディネーター

 正確な日本地図を初めてつくった偉人・伊能忠敬は1818年に亡くなった。没後200年の今年は記念行事がいくつも催され、改めて脚光を浴びているが、忠敬の人生を知って驚くのは当時の江戸の天文学者が西洋で構築された近代天文学を把握していたという事実である。鎖国の江戸時代は、世界の学問の発展から取り残されていたというイメージがあるが、いやいやどっこい、漢訳とオランダ語訳の書物を通じて近代科学の進展は届いていた。そして、観測機器をつくって自ら天文観測に励む学者たちがいた。だからこそ、あの時代に忠敬があそこまで正確な地図を描けたのである。

千葉県香取市の佐原公園に立つ伊能忠敬の銅像

 1745年生まれの忠敬は、現在の千葉県香取市で酒造業などの家業に精を出していたころから暦学(天文学)に興味を持ち、隠居して本格的な勉学を志す。1795年に江戸に行き、幕府天文方高橋至時(よしとき)に弟子入りした。忠敬50歳、至時は19歳年下の「先生」だった。この時点では、地図づくりのことはまったく念頭にない。

楕円軌道の理解が「近代」への鍵

 西欧世界での天文学の近代化は、ティコ・ブラーエによる精密な観測記録→その観測データをもとにケプラーが「惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道を動く」などの3法則を発見→ニュートンが万有引力を発見し、運動の3法則(慣性の法則、運動の法則、作用・反作用の法則)をまとめる、という道筋で進んだ。ニュートンは力と運動の法則を確立した。それにより、惑星は太陽の周りの楕円軌道を動くことが理論からの必然として示された。

 古代ギリシャ時代から円は「完全な形」と考えられ、天上の星は円運動をするものと考えられてきた。これを円ではなく楕円だと理解するのは近代への重要な一歩である。ケプラー(1571-1630)とガリレオ(1564-1642)は同時代人だが、望遠鏡で木星の衛星を発見するなど天文学者として優れた業績をあげたガリレオは、どういうわけか楕円軌道説を受け入れず、終生、惑星は円軌道を回っていると考えていたと言われる。楕円軌道を理解するにはかなりの数学的能力がいるので、これを理解した天文学者を「近代的」、理解できなかったら「古典的」と分けてもいいのかもしれない。

「理系将軍」吉宗が西洋天文学への道をひらく

 さて、鎖国政策のもとで西洋からの情報流入が遮断された江戸時代だが、みずから望遠鏡を覗き、「理系将軍」とも言われる第八代吉宗は1720年に禁書令を緩和し、科学書の輸入を許可した。これにより、漢訳天文書が日本に入ってきた。

 中国には、イエズス会士がティコ・ブラーエ体系を伝えたものを集大成した「崇禎暦書」があった。1742年には、ケプラーの楕円説を導入した「暦象考成後編」が出た。これらを入手して読み込んだのが、

・・・ログインして読む
(残り:約1452文字/本文:約2610文字)