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ルイーズちゃん誕生で先端医療がショーになった頃

騒ぎすぎたのは間違いないが、あけっぴろげの透明性があった

尾関章 科学ジャーナリスト

 この夏、朝日新聞の「ひと」欄にルイーズ・ブラウンという名の英国人女性が登場した(2018年8月8日付朝刊)。高年齢層には、「ルイーズちゃん」と聞いて思いだす人が少なくないだろう。1978年7月25日、英国マンチェスター近郊のオールダムで世界初の体外受精児として生まれた女の子だ。彼女が今年、満40歳の誕生日を迎えた。その機会をとらえて、ロンドン駐在の記者が彼女の近況を取材したのである。今は世界を回って自身の思いを語っているという。

今の日本ではありえない

拡大ルイーズ・ブラウンさん。誕生後間もないころの写真とともに=2018年7月23日、下司佳代子撮影
 私のように80年代から科学取材に携わってきた元新聞記者が、この記事を読んで抱く感慨は、あのころは先端医療がショーのように報じられたのだなあ、ということだ。私人家庭のおめでたがあのように固有名詞入りで大騒ぎになることは、個人情報とプライバシーが尊重される昨今の日本社会ではありえない。それは、むかし遠い外国であった椿事として片づけるべきなのか。それとも、今日でもいかばかりかは学ぶべき教訓があるのか。本稿ではそのことを考えてみたい。

 ルイーズちゃん誕生が当時、最先端医療の成果だったことは間違いない。性行為なしの生命誕生は人工授精によってすでに実現していたが、受精の瞬間まで医療の管理下に置かれるというのは従来の生命観を逸脱していた。この第1報は世界を駆けめぐり、朝日新聞も78年7月26日付夕刊の1面トップで扱っている。

ショーの仕掛け人はメディア

拡大「初の体外受精児誕生」を伝える1978年7月26日付の朝日新聞夕刊1面
 だが、大騒ぎになったのは、それが科学史上の大事件だったからだけではない。第1報で朝日新聞のロンドン特派員は、この件では報道独占権というものが設定され、それを大衆紙デイリー・メールの発行元が円換算約1億2000万円で取得したという情報を伝えている。この通りだとして、その大金がどこへ流れたのかははっきりしないが、在英メディアの一部が報道の原則などお構いなしに商機に飛びついたのは確からしい。それが競争紙を刺激して、取材合戦はいっそう激しくなった。

 ニュースのショー化を増幅したのは、現地の報道で用いられた“test-tube baby”という呼び方だ。日本でも「試験管ベビー」と訳されて多用された。体外受精に比べてわかりやすい表現ではあるが、この技術に対する俗っぽい好奇心をあおることにもなった。総じて言えば、ショーの仕掛け人はメディアだったと言ってよい。

 報道の過熱ぶりは今、ルイーズ・ブラウンさんの公式サイトに入ってみても、よくわかる。動画を開くと、ルイーズちゃんが退院してブリストルの自宅に戻ったときの映像が流れ、BBCの元リポーターが取材のドタバタぶりを証言している。世界中から何百人もの新聞記者や映像撮影班が押しかけ、救急車のドアを開けようとして大混乱になったという。

キンキンの「ルイーズちゃんです」

 この動画には、日本人が見て「えっ?」と驚く映像も出てくる。ルイーズちゃんは赤ちゃんの頃(本人のコメントでは2歳になる前)、両親とともに来日してテレビ出演していたのだ。愛川欽也さんが司会する番組。「ルイーズちゃんです、どうぞ」と、キンキンが陽気な声で紹介している。映像からしか判断できないが、番組はニュースではなく、情報バラエティー系と思われる。ショーは、世界中に拡散していた。

 私が朝日新聞の科学部員になったのは83年夏。そのころ、部の先輩が5年前のルイーズちゃん報道を振り返って科学報道談議をしていたことが思いだされる。このときに苦々しく語られたのが、例の「試験管ベビー」。朝日新聞社内には早くからこの用語に対する忌避感があったようで、78年の第1報でも見出しは「初の体外授精児誕生」となっていた。ただ、本文では「体外授精児(試験管ベビー)」という表現がとられている。

拡大自分が受精卵だったころに納められていた器具を前にほほえむルイーズ・ブラウンさん=2018年7月23日、下司佳代子撮影
 ちなみに、この「体外授精」は、その後「体外受精」となって学界に定着する。英語では“in vitro fertilisation”(米国流ではfertilization)なので、授精=inseminationよりも受精=fertilisationが適切とされたのだろう。“in vitro”はラテン語で「試験管内で」という意味だから「試験管内受精」でもよいはずだが、それが「体外」と訳されたところに奇異感を弱めたいという意図が感じられる。

 83年当時、科学部員にとって最大の関心事は実名報道の是非だった。日本国内の体外受精第1例にどう対処するかが差し迫った問題になっていたからだ。

心臓移植も「実名」の時代

 ルイーズちゃん報道では、本人のみならず父母も名前入りで報じられた。 ・・・ログインして読む
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筆者

尾関章

尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト

1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。1週1冊のブログ「本読みby chance」を開設中。

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