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なぜ日本の大学は自主・自律に欠けるのか

学長、教職員、理事会、役所、財界、スポンサー……が築くべき真に適切な関係

古井貞煕 豊田工業大学シカゴ校 (TTIC) 理事長

 大学の自主性と自律性が危うくなっている。文部科学省の中央教育審議会の答申「我が国の高等教育の将来像」には、次のように書かれている:

 大学は、学術の中心として深く真理を探求し専門の学芸を教授研究することを本質とするものであり、その活動を十全に保障するため、伝統的に一定の自主性・自律性が承認されていることが基本的な特質である。

 このような特質を持つ大学は、今後の知識基盤社会において、公共的役割を担っており、その社会的責任を深く自覚する必要がある。(「新時代における高等教育機関の在り方」)

 この自主性・自律性を大学の「基本的な特質」であるとする考え方は、国際的には共通認識であるが、残念ながら、最近の日本の大学では実現しにくくなっているように思う。むしろ、「一定の」という制約面が強調されて、産業界などの役に立っているかという浅薄な意味での「社会的責任」だけが強調され、学術の中心としての本質が脅かされている。

日本には国立・公立・私立を合わせて780の大学がある
 以前に、拙稿「大学と官僚がともに自立できる社会に」に書いたように、アメリカでは、「大学は社会資産」という考えが徹底している。そのために、各大学について、その自主性・自律性(autonomy)と独立性(independence)が保たれているか、高等教育委員会が常に監視している。国や州が教育内容や仕組みについて口を差し挟むことは、禁じられている。

スポンサーの口出しは筋違い

 アメリカでは、建物建設などの目的を明示した寄付は別として、寄付者からの独立性、すなわち、寄付者が大学の経営や教育内容に口を出していないことが、厳しくチェックされている。筆者が学長を務めているアメリカの大学の経営は、日本のトヨタ自動車および豊田工業大学からの基金運用に大きく依存しているが、それらからのコントロールを受けていないことが、理事会の構成や、理事会の議事録などを通じて、定期的な適格認定(accreditation)評価プロセスの中で、チェックされている。

 日本においても、国立大学、公立大学、私立大学を問わず、スポンサーが違っても、同じ原則を守ることが重要である。「スポンサーはお金を出しているのだから、大学の運営に口が出せる」というのは誤った認識で、国立大学の運営に、政治家や役所が口を出すのは間違っている。

日本の大学生数は289万人、教員数は18万5千人だ

 国から大学への運営費交付金や補助金が毎年減り続け、多くの大学が経営の危機に直面している。その減らされた分の予算は、いわゆる競争的資金となっており、それが真に大学の優れた自主的な活動をサポートするために使われているのなら良いが、残念ながらそのような内容になっていない。アメリカでは、全米科学財団(National Science Foundation=NSF)などの競争的資金の重点的配分分野に関して、大学などの専門家の意見を集めることが、頻繁に行われている。日本人の筆者でさえ、そのための会議に招待されることがある。残念ながら、日本ではそのような開かれた議論はほとんど行われず、競争的資金の使い道は、役所主導で決められている。

 経営の危機に瀕している大学としては、競争的資金の内容が何であれ、お金を得るために応募せざるを得ない。また、その獲得への意欲を示すことが、国や社会から求められている。資金の獲得結果が「ランキング」などで公表されるからである。結果として、大学を役所の方針に合った方向へコントロールすることになる。(アメリカに比べると)極めて貧弱な、年間2~4千万円くらいの規模の資金でも、役所の意図に合うように申請する準備に莫大な人的資源を費やしている。その資金を苦労して獲得しても、長期的な大学の進歩に実際に役立つものは、極めて少ない。貴重なお金と労力の無駄遣いになっている。これが汚職につながるという弊害まで生んでいる。

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