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アインシュタインを打ち負かした人にノーベル賞を

アラン・アスペ――量子力学が「お化け」でないことを実証した

尾関章 科学ジャーナリスト

 「ノーベル物理学賞の予想記事を書きませんか」。当欄の担当者からそう打診されて、最初は渋った。現役の新聞記者だったころは毎年、秋になると誰が受賞するかで頭を悩ましたものだ。受賞者が決まったときの記事に抜かりがないよう、的確に山を張りたかったからだ。だが今は、そんな義務感から解放された。だから、予想はしない。

 それで思いついたのが、ノーベル賞をどうしても獲ってほしい人のことを今のうちに書いておこう、ということだった。日本人の物理学者は、なにかと差しさわりがあるので最初から外した。とはいえ、30年の科学記者生活で1回でも取材した人をとりあげたい。そんな条件を課して来し方に思いをめぐらせていたら、立派な髭を生やしたフランスの物理学者の顔が浮かんだ。アラン・アスペ。量子力学の正しさを検証した「アスペの実験」で知られる(文中敬称略、以下も)。

「アスペにだけは会っておきなさい」

実験室のアラン・アスペ(右)=1995年、尾関章写す
 彼に会ったのは、1995年のことだ。そのころ、私はロンドン駐在で、量子コンピューターや量子暗号の開発に代表される量子情報科学の台頭を連載記事にまとめようと欧州諸国の物理学者を訪ね歩いていた。その幾人かが口をそろえて助言したのが、「アスペにだけは会っておきなさい」ということだった。その理由は何か。

 アスペの実験は、量子情報科学の物理学者がそのころ関心を寄せていたこと――量子情報の基本単位となる「量子ビット(キュービット)」をどんな物理系で実現するか――には直接関係がない。それなのに一目も二目も置かれていたのは、その成果が量子情報科学の土台となっているからだ。論文が世に出たのは82年。量子コンピューターの着想は出始めていたが、まだ現実味を帯びていなかった。そのころに量子力学の検証実験としてなされたものだった。

 実験の概要は、こうだ。カルシウム原子のエネルギー状態をいったん高め、再び低い状態へ落とすとき、双子の光子を逆方向へ放つようにする。二つは、発生時の行きがかりで強い結びつき(今では量子もつれという訳語が定着した)がある。A、Bの行く手に、同じ向きに設定した偏光フィルターを置いたとしよう。Aがフィルターを通り抜ければBも通る。Aが通らなければBも通らない。ところが、A、Bの行く手にある偏光フィルターの向きをずらすと、話はとたんに複雑になる。

 ずらす角度によってA、Bがともに通ったり、通らなかったり、どっちか片方だけが通ったりする確率が異なってくるのだ。実験を繰り返して統計をとると、A、Bの相関の程度がわかる。その結果、相関はかなり強く、Aの偏光状態がフィルターを用いた観測によって一つに決まった瞬間、Bもそれに合わせて一つに定まるらしいことがわかった。これが、アインシュタインの拒否感を招いたのである。

アインシュタインの「お化け」批判

 アインシュタインは、物質の実在を信じた人だ。量子力学が言うように、原子や電子は複数の状態が重ね合わさっており、観測によって一つに決まるとは考えなかった。もしそれを認めたら、双子の粒子で片方の状態が決まると同時にもう一方も決まるということが起こり、光よりも速い情報伝達はないとする相対論を逸脱してしまう。これは「お化けのような遠隔作用」ではないか、量子力学は実在のありようをきちんと描けない、その陰に不可解な遠隔作用を許さず、局所の実在を保証する「隠れた変数」があるはずだ――そう彼は考えた。相対論で知られる大物理学者は、光量子仮説で量子論の礎を築いた人でもあるが、量子力学の世界像には懐疑の念を抱いていたのだ。

 アインシュタインは35年、「量子力学による物理的実在の記述は完全といえるか」と題する論文で、後に「EPRの逆説」と呼ばれることになる思考実験を試みた。EPRは、著者3人の姓の頭文字。ここで展開したのが、上記の考え方だ。離れた粒子が意気投合するというようなことを実在論の立場から批判、量子力学は物理的実在の記述という面で不完全だとする立場を鮮明にした。

この実験があればこその量子情報科学

 ところが半世紀近く過ぎて、アスペがそれを否定した。かつて思考実験でしか考察できなかった問いを現実の実験で確かめ、

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