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ゲノム編集の赤ちゃん「不確かな事実」の不気味

報道は警告の役目を果たしたが、あいまいなまま「闇の技術」にしてはならない

尾関章 科学ジャーナリスト

 こんなとき、科学記者は困るよなあ――。OBとして後輩に対する同情を禁じ得なかったのが、中国を舞台とする「ゲノム編集の子、世界初の誕生」騒動だ。ゲノム編集は、遺伝子DNAをあたかも文章に手を入れるように改変してしまう技術。それを人の受精卵に試みたのなら、1953年のDNA構造発見以来、生命科学の分野で最大級のニュースとなる。だが、公表の場は学会でも論文誌でもなかった。当該研究者がネットの動画投稿サイトで滔々(とうとう)と「成果」を語ったのである。

末尾に「か」がつく話

 本当かもしれないから無視はできない。一方、本当でないのに素直に報じれば虚報の拡散に手を貸すことになる。相手が日本国内の研究者なら、本人に会ったり周辺の評判を聞いたりして真偽を見極めやすいが、さほど著名ではない外国人研究者となると、すぐには手がかりが得られない。報じるべきか否か、報じるとしたらどのように扱うべきか、記事の出稿部門も紙面の編集部門も悩んだに違いない。

 朝日新聞東京本社発行の最終版に第1報が出たのは、11月27日付朝刊だった。国際面の片隅に置いて、見出しは「ゲノム編集の子 中国で誕生か」。末尾の「か」で断定を避けている。本文冒頭に「中国メディアは26日……と報じた」とあり、現地報道を伝える転電形式だ。その報道によれば、生まれたのは双子の女の子。中国の科学者がゲノム編集の技術を用いて遺伝子レベルでエイズウイルス(HIV)に感染しにくくする処置を施した、という。

笑顔で語る動画を投稿

香港での国際会議で、双子の女児をゲノム編集技術を使って誕生させたと発表する賀建奎・南方科技大副教授=2018年11月28日、益満雄一郎撮影
 情報は25日ごろから広まったらしい。動画投稿サイト「ユーチューブ」を開くと、25日付で、その「中国の科学者」、賀建奎・南方科技大学副教授の研究室が自作とおぼしきビデオを公開している。賀氏は笑みを浮かべながら「数週間前、中国人の美しい赤ちゃん2人が、ほかの赤ちゃんと同様に健康な状態で産声をあげました」と切りだし、ふつうと違うのは受精卵の段階で遺伝子を「手術」してHIV感染を引き起こすしくみを除いたことにある、と主張した。

 メディア報道で早かったのは、AP通信。26日に香港発の記事を配信している。APのサイトでは、この記事と併せて動画も見られる。動画には賀氏が登場して、第1例の敢行という一石を投じたことに「責任を強く感じる」と発言している。この報道は、ゲノム編集の臨床応用を「道徳的、倫理的に擁護できない」「時期尚早に過ぎる」とする識者の声も紹介しており、全体としてみれば安全面や倫理面の懸念を強く打ちだしていた。

 メディアには、賀氏の発表を疑問視する見方も根強くある。AP自身、自社のインタビューを「特ダネ(exclusive)」とうたっているにもかかわらず、「賀氏の主張を第三者が裏づけたということはない」「査読のある論文誌にも発表されていない」とことわっている。英国BBCはもっと懐疑的だ。BBCサイトには26日付で「中国の遺伝子編集赤ちゃん、主張に疑義あり」と題する記事が出ている。文中に「APが映像化した彼の主張は未確認」(彼とは賀氏)とあり、競争社の先行報道を真に受けていないことを強調している。

検証にプライバシーの壁

 APは賀氏に直接会ったのだから、確認のしようがなかったのかという気がしないでもない。ただ記事には、双子の両親が名前を出されたり取材を受けたりすることを拒んでおり、どこに住んでいるか、どこで処置を試みたかを言うつもりはない、とする賀氏の言い分が書かれている。プライバシーの保護はわかるが、それを理由に検証の可能性を狭めているとも言えよう。今日的な状況ではある。

 こうしたなかで、後輩たちはどんな続報を出していくのか。これが私の関心事だった。事の真偽は不明だが、人に対するゲノム編集のことはきちんと記事にする必要がある。たとえ今回は事実でなくても、それが事実となる日は近そうだからだ。だとすれば、この機会をとらえて問題点を洗いだしておくべきだろう。では、どのページにどのくらいの大きさでどんな切り口で報じるのか。

真偽不明でも記事は書ける

賀建奎・南方科技大副教授が国際会議で示した画面。たんぱく質「CCR5」の遺伝子に変異を入れ、HIVに感染しにくい体にすることを狙った。生まれたという双子の女児を「ルル」と「ナナ」と呼んでいた=2018年11月28日、福地慶太郎撮影
 結果は、概ね妥当なものだったと思う。朝日新聞は28日付朝刊の第3総合面に大きな扱いで「『ゲノム編集の子』に批判噴出」という記事を載せた。全世界に視野を広げて、人の受精卵のゲノム編集をめぐる学界の動きや社会の動きをまとめたものだ。

 学界には「HIVは他にも感染を防ぐ方法があるのに安全面の課題があるゲノム編集をする必要があったのか」との批判があること、米科学アカデミーなどがまとめた報告書は「重い遺伝病を治す目的に限って受精卵のゲノム編集を容認」して「能力や容姿を操作する目的」は除外したこと、英国ではもっと幅広く容認してよいとする報告書が生命倫理関連団体から出ていること、その一方、英仏独ではこの技術に対する法規制も整っていること――見出しには「『条件付き容認』の流れも」「日本、遅れる法整備」とある。この記事は、人に対するゲノム編集が差し迫った問題であることを浮かびあがらせ、日本でも議論を急ぐべきだという警告にもなっている。

人間の生殖細胞へのゲノム編集は技術的に可能なレベルにあるとされる
 ここで老記者の私見を言い添えれば、人の受精卵のゲノム編集には子孫が受ける影響に対する懸念が あることも記事に書き込んでほしかった。内閣府総合科学技術・イノベーション会議の専門調査会は2016年の「中間まとめ」で、受精卵の遺伝子改変は「適用を受けた世代のみならず、次世代以降にも影響を与える可能性がある」と指摘している。これは、1990年に国際医学団体協議会(CIOMS)が愛知県犬山市で採択した「犬山宣言」の精神に沿っている。宣言は遺伝子を扱う医療の方向性を示したもので、影響が後続世代にも及ぶ生殖細胞の遺伝子治療には「待った」をかけていた。

 ともあれ今回、メディアがゲノム編集に対する批判を素早く伝えられたのは、27日に香港で「第2回ヒトゲノム編集国際サミット」という国際会議が始まるタイミングだったからだ。朝日新聞も現地に科学記者を送り、28日付朝刊の記事ではこの会議での議論を一つの柱にしている。

ショーアップが逆効果? 

 興味深いのは、賀氏はこの国際会議を念頭に一連の発信を始めていたらしいことだ。

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