メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

清貧のナチュラリスト、田淵行男さんの思い出

決して自分に妥協せず、しかし他人にはどこまでも優しく

山口進 自然写真家

 美しい山の写真や精緻な昆虫観察を通して自然の素晴らしさを伝え、多くの人に敬愛されたナチュラリスト、田淵行男さんが亡くなって今年で30年になる。NHKの「日曜美術館」は1月、田淵さんの歩みと作品を特集し、視聴者に強い感銘を与えた。地元の長野県立博物館では「自然を見つめた田淵行男展」を2月17日まで開催中だ。この企画展に連携し、安曇野市の田淵行男記念館も「写真展 日本アルプス」を開いている。

 筆者もまた、田淵さんを師と仰いできた。最後まで自分に妥協せず、しかし他人にはどこまでも優しかった田淵さん。悩むたび、「田淵さんなら、どう考えるか」を自問し、生きる指針にしてきた。田淵さんの業績が回顧されるこの機会に、自分の思いを記しておきたい。

写真集「高山蝶」に衝撃

田淵さんの著書「高山蝶」

 高校2年生のときだった。長崎の繁華街にある古書店で、田淵さんの「高山蝶」を見つけた。箱から取り出し、ページをめくると強烈な印象に襲われ、手が震えた。当時3500円の本には手を出せず、そのまま書架に戻したが、以来いつまでも心に残り続けた。

 それから11年後。私は昆虫写真家を目指した。ニューギニアでの撮影を終えた帰路の貨物船のなかで突然、「高山蝶」の衝撃がよみがえり、すぐに写真集を買い集めた。それは写真の勉強であるとともに、心の安らぎだった。田淵さんに会ってみたい、と心から思い始めた。

 やがて自分も高山蝶の本をまとめようと目論んだ。1977年夏、単独で北海道大雪山系の黒岳に登り、白雲小屋に入ると、田淵さんがいらした。驚き、恐る恐る声をかけた。

「弟子にしてください」

 田淵さんも小屋に滞在していた。「今回が最後の大雪行です」と教えられた。私が一人で食事を作っていたら「山口君も来なさい」と誘われ、レモン果汁たっぷりの紅茶をいただいた。数日間、田淵さんとの夢のような時間が過ぎた。

田淵行男さん=1955年、常念一ノ沢(田淵行男記念館蔵)

 花畑の撮影に同行して様々な話をしたが、興奮して何も覚えていない。天気が悪い時、小屋の片隅で本づくりの構成を紙に描いていたことが印象的だった。別れる時、「山口君、豊科に来なさい」と言葉をかけてくださった。

 しばらくして豊科の田淵邸を訪ねると、日出子夫人とともに大歓迎してくれた。書斎に置かれた「山頂の石」を見て、日出子夫人が「お父ちゃんも、こんな重いものをよく持って帰ったものですね」と笑われた。

 その時、私は「弟子にしてください」とお願いしたのだが、田淵さんはにこやかに「弟子にならなくても、いつでも来なさい」と答えてくださった。それからというもの、時間の許す限りお邪魔しては、運転手として安曇野を巡った。最後の写真文集「安曇野挽歌」を構想されていたのだろう。変貌する風景を寂しげに見つめていらした姿が印象的だった。

病室で表彰状を読み上げて

 1987年、私は初めての写真文集「五麗蝶譜」(講談社)を出版するに先だって、田淵さんに前書きをお願いした。この本はアリと共生するシジミチョウ5種の生態をまとめたもので、田淵さんの撮影技法を各所に取り入れた。そのゲラ刷りを眺めながら、「よくここまで撮影したね」と言われ、前書きも快く引き受けてくださった。

田淵行男さん(中)と日出子夫人(右)、筆者=1980年ごろ、
 この年の秋、日本鱗翅学会の久保快哉理事から突然、「学会で協議を重ね、田淵氏に功労賞を出そうということになった」と、お電話を頂いた。ところが田淵さんはご病気になり、豊科の日赤病院に入院されていた。久保理事はこう続けた。「山口君に賞状を届けて欲しいのだが」

 あまりの重責に戸惑いながら、一人で病室を訪ねた。入り口近くに日出子夫人が付き添い、奥の窓際に田淵氏が伏せておられた。私は賞状を取り出し、読み始めたのだが、胸が締め付けられて声がうまく出ない。涙すら出る始末だ。それでもなんとか読み終え、表彰状を手渡し、大糸線で帰路に着いた。窓から見える常念岳が霞んでいた。

・・・ログインして読む
(残り:約1367文字/本文:約2958文字)