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すばる望遠鏡とハワイと日本の30年

次世代30メートル望遠鏡TMTは21世紀のハワイアン・カヌー

林左絵子 国立天文台准教授

気象調査開始から30年、初観測から20年

 ハワイ島最高峰マウナケア(標高4205メートル)山頂付近には、天文台がひしめいている。1989年、その天文台群に勤務する日本人(日本生まれで仕事などのために来島した人)は1人、プラス東京天文台(当時の名称)からの長期出張者が1人か2人いる程度だった。それから30年を経た2019年には、日本が運用に関与する2つの望遠鏡(国立天文台ハワイ観測所のすばる望遠鏡と、日本・韓国・台湾・中国で共同運用する東アジア天文台のジェームズクラークマックスウエル望遠鏡JCMT)で働く職員(日本人とは限らない)プラス他の望遠鏡で働く日本人を入れると150人近くに達する。また日本から来た職員らの家族のもとにハワイで生まれた子どもたちが25人を超えている。

すばる望遠鏡20周年記念式典=6月12日、東京・学術総合センター一橋講堂

 1989年というのは、すばる望遠鏡(当時のプロジェクト名JNLT)建設現地の詳細な気象条件調査のために気象タワーが建てられたころである。直径8.2メートルという当時世界最大級の望遠鏡が完成し、最初の観測が行われたのは1999年だった。それから20年たったことを祝う記念式典が6月12日に東京で開かれた。

 最初に紹介した1989年にマウナケアの天文台群に勤務するたった1人の日本人とは、私のことだ。1987年から1990年まで、イギリス、オランダ、カナダが協力して建設し観測を始めたばかりのJCMTに勤務し、その後はずっとすばる(JNLT)で働いてきた。その間にハワイ島での望遠鏡の位置づけや島外から来てそこに働く人々の地域での受け止められ方が大きく変わってきたことを現場で目撃してきた。本稿ではそのことについて書かせていただく。

すばる望遠鏡が建設される前のマウナケア山頂域の尾根
すばる望遠鏡が建設された後のマウナケア山頂域

地元ビジネス界が望遠鏡を誘致

 1990年代には「望遠鏡で働いている」と説明しても「展望台ですか?」と聞き返されたし、ハワイ出張に防寒着を持参すると、税関検査で相当怪訝な表情に出会ったものだ。富士山より高いマウナケアの山頂は常にとても寒い。そんなところに外国人が行くとは、常夏のハワイの係官には想像できなかったのだろう。しかし、いまや山頂の天文台群の存在も、そこで働く人々の存在もずいぶん知られるようになって、確実に地元社会の一部になってきている。

 マウナケアに望遠鏡が誘致されたのには、地元のイニシアチブが大きい。ハワイ島の政治的な中心であるヒロの町は、島の東側にあり、南米やアラスカで発生した大地震による津波被害を何度も受けてきた。中でも1960年5月22日のチリ地震による津波は23日にヒロ(24日に三陸)を襲い、ヒロ湾沿いの商業地域を壊滅させ、経済的に大きな打撃を与えた。主要な産業であったサトウキビ産業が衰退しつつあったところへの打撃である。地元のビジネス界が、社会・経済の復興に知恵を絞り、その動きがハワイ島の最高峰マウナケアへの望遠鏡誘致につながった。

国立天文台ハワイ観測所の職員たち=2017年11月撮影、国立天文台提供

 最初に山頂に建設された4 mクラスの大型望遠鏡は、カナダ・フランス・ハワイ望遠鏡で、1979年に完成した。1980年代に日本が望遠鏡建設のための国外適地のサイト調査を行なった際、ヒロは早々と歓迎の意を表している。サトウキビ農園でのアジア系移民の努力に加えて、第2次世界大戦時の日系2世部隊の働きもあり、ハワイ州地元でのアジア系・日系の方々の力は強い。自然の条件が良いところは他にもあるが、日本が歓迎されるような社会的な条件の良い所は、珍しいのではなかろうか。

 とは言え、ハワイ島には日本企業など進出していない。建設が始まり、関係するメーカーの方はそこに突然転勤を命ぜられる。家族も連れて先発された方々は、生活のためにさまざまな苦労を重ねられた。

次世代望遠鏡TMTへの大規模な反対運動

 こうした様々な苦労や出会いに支えられて築かれていった地元との信頼関係に、大きな試練が生じたのは2015年春であった。

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