求められる対等な日米関係の構築
2019年09月02日
今日は8月13日。宜野湾市の沖縄国際大学(沖国大)に米軍大型ヘリCH53Dが墜落してから15年になる。当時、筆者は沖縄大学の学長職を務めており、沖縄県内の大学の学長が急遽集まり、日米両国政府に緊急の抗議声明を出したことを昨日のことのように覚えている。
そのときに筆者がすぐに想起したのは、1968年6月2日の九州大学の大型計算機センターに米空軍ファントムが墜落した事故であった。当時、全国の大学で学生たちが声をあげていたまさにその時に起きた事故だ。計算機センターは抗議する学生たちに占拠され、翌1969年1月5日に何者かによって引きずり降ろされるまで7カ月間、残骸は手つかずであった。
この対照的な差は一体何だろう。筆者が抱いた最大の疑問はこれだった。
沖縄県民の怒りはまず、占領者意識を丸出しにした米軍に向けられたが、日本政府とメディアの対応も許せないものだった。ボリビアに出張中だった稲嶺恵一知事は予定を繰り上げて帰国し、18日に小泉純一郎首相へ面会を求めたが、「夏休みに入った」として会うこともできなかった。
普天間基地の地元の伊波洋一宜野湾市長も同様であった。またメディアもこの間、アテネオリンピック関係の報道を最優先し、米軍が日本で事実上「治外法権」を行使し、日本政府がそれに対して何の対応もしていないという日本の現在と未来に極めて重要な意味を持つこの事件をほとんど取り上げなかった。
今年8月12日の沖縄タイムスは、沖国大ヘリ墜落15年にあたって稲嶺元知事に当時の心境について聞いている。稲嶺元知事は、小泉首相に面談を断られた件について、「学業の場へのヘリ墜落の重大性を理解してもらえなかった。とてつもない温度差を感じた」と述べている。また米軍の現場規制については「日本の民間地なのに警察も消防も立ち入りを規制された。主権国家として由々しき事態で、米国属国のように見えた」と振り返っている。
そして稲嶺元知事は「もし東京都内で同じ事故が起きたらどうなるか。沖縄で起きたことに国民の実感は弱い。寂しさを感じる。世代が変わり、戦争体験者が減り、沖縄の心を知る人が少なくなった。沖縄と本土との温度差はさらに広がるだろう」としている。
沖縄と本土のこの温度差をそのものズバリ示したのが、ここにきて急浮上した羽田空港の新航路に伴う落下物や騒音をめぐる大騒動である。2020年の東京オリンピックに向け、国際線の発着回数を増加させるべく航路変更が計画され、頭上を飛行機が飛びかうこととなった都内の住民たちが、落下物や騒音などの懸念から反対の声を上げている。当然の声ではあるが、普天間基地の周辺住民からすれば、なぜ都民の声は取り上げられて自分たちの声は無視されるのかと愚痴も言いたくなるだろう。現実に、離発着する軍用機から窓などが周囲の小学校や保育園に落下し、避難訓練までもが繰り返されているのが沖縄の実態である。
九州大と沖国大における米軍機墜落事故への対応の差は、我々に何を示しているのだろうか。筆者がこの15年間こだわってきたこの問いに、考えるヒントを与えてくれるのは次の2書である。それは国場幸太郎氏の「沖縄の歩み」(岩波現代文庫)とガバン・マコーマック氏の「属国」(凱風社)だ。
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