黒沢大陸(くろさわ・たいりく) 朝日新聞論説委員
証券系シンクタンクを経て、1991年に朝日新聞入社。社会部、科学部で、災害や科学技術、選挙、鉄道、気象庁、内閣府などを担当。編集委員(災害担当)科学医療部長、編集局長補佐などを経て、2021年から現職。著書に『コンビニ断ち 脱スマホ』『「地震予知」の幻想』、編著に「災害大国・迫る危機 日本列島ハザードマップ」。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
関東大震災から96年、防災施策にもっと多様な視点を
9月1日、防災の日。関東大震災から96年となった。阪神大震災、東日本大震災に見舞われた「平成」の時代、社会の災害や防災に対する関心が高まり、関連の報道も増えた。この間、自然災害のリスクの想定や公表も進んできたが、大きなリスクを強調する伝え方がパターン化してきたことに、近年、違和感を持つようになってきた。防災は異論を唱えにくい対象ではあるけれど、その時々で多くの人々が正しいと考える防災や災害対策に対しても、疑問を投げかけていかないと、多様な視点に欠けて、またぞろ「想定外」の被害に見舞われる恐れが高まってくる。このほど、日本自然災害学会から学会誌「自然災害科学」に小文を載せる機会をいただき、その問題意識を提示した(「災害の研究者とメディアの役割を再考する」)。紙幅の都合で書けなかったことも交えて、考えを広げてみたい。
「想定外をなくす」「犠牲者ゼロ」「1日も早い復興」「国土強靱化」「創造的復興(ビルド・バック・ベター)」こんな言葉を災害や防災に関連して耳にするが、どう思うだろうか。目標としては素晴らしい。ただ、それに盲従するだけでは、隠れてしまう本質的な課題、その施策を進めることによって発生する新たな問題などを見落とす恐れがある。防災や減災は、基本的にいいことだから、批判的な視点を向けにくかったり、そこまで厳しく考える必要はないと思ったりするかもしれないが、将来に問題になることを減らすためにも、いろんな視点から議論を深める必要がある。
災害が発生すると、次に類似の災害が起きたときの対策が急がれる。災害直後、政治家も官僚も、社会やメディアも興奮状態になっており、ときの潮流に逆らうような意見が出されてもかき消され、最終的にできる施策は、極端になる恐れがある。そのときに社会の大多数が必要と考える政策であっても、数十年、百年後の人々が「なぜ、あんな施策を実行したのだろう」と思うかもしれない。災害直後ばかりではなく、平時であっても、社会が思考停止していれば同様だろう。
南海トラフの地震想定は、マグニチュード(M)9という前代未聞の地震によって起きた東日本大震災の直後に見直された。従来の想定から大幅に地震の規模が引き上げられ、M9が想定された。当時から「M9ありきの想定」との批判があった。その後に想定された相模トラフではM9という数字は出てこなかったうえ、関東大震災級のM8の地震は想定されたけれど、主に備える対象となったのは首都直下のM7級の地震だった。いま、南海トラフの最大想定で防災対策を進めることにも疑問の声が出てきている。
東日本大震災後に声高に言われた「想定外」は、自然による猛威の大きさだけを考えれば防げるわけではない。むしろ、その力を侮る人間や組織の構造が引き起こす「想定外」が、より深刻かも知れない。災害の被害を受けやすい沿岸部や急傾斜地の開発、少子高齢化、インフラの老朽化など社会構造の変化によって、従来だったら起きなかった被害を想定しきれているのか。技術や予算、法制度、住民や組織の都合で覆い隠されている問題はないか。災害対策を考える人々が、同じ方向を向くと、欠けている対策、見えていない問題を見逃す恐れが高まるだろう。日本は人口が減っていくこと、国や自治体の財政が厳しいことも忘れてはいけない。右肩あがりの社会と、縮小していく社会とでは防災のあり方も、自ずと変わるはずだ。
「1日も早い復興」はどうか。復興は大事だ。早く復興することも大切だ。でも、それがすべてだろうか。