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DNAで俗世間を変えた人、キャリー・マリス死す

DNA大量コピー法で、事件捜査も親子鑑定も恐竜映画も一変させた

尾関章 科学ジャーナリスト

 旧盆のさなか、新聞の片隅に科学記者OBには見落とせない小さな記事が載った。米国の生化学者キャリー・マリスの訃報だ(朝日新聞2019年8月14日付朝刊)。74歳。8月7日に肺炎のために亡くなった、という=文中敬称略。

拡大キャリー・マリス氏=ノーベル財団のHPから
 マリスこそは、DNA情報を研究室から世の中に引っぱりだした科学者だった。DNAはデオキシリボ核酸という物質。1953年、それが二重らせんの立体構造をもっており、そこに4種の塩基が暗号文字のように並んでいることをジェームズ・ワトソン(米)とフランシス・クリック(英)が突きとめた。遺伝子の正体が姿を現したのだ。この発見を踏まえて70年代前半に遺伝子組み換え技術が開発され、バイオテクノロジーが興る。発がんや免疫のしくみもDNAレベルで次々に解き明かされていく。私が科学記者になった83年は、それが活況を呈した時期だった。ただ一つ言えるのは、DNAの塩基配列という情報のかたまりは生命科学研究者やバイオ系技術者の手にあり、私たちの日常生活には縁遠い存在だったということだ。

「わずか」を「大量」にする魔術

 マリスは、そんな状況を一変させた。朝日新聞の死亡記事を引用すれば「わずかなDNAを大量に複製するポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法を開発した」のである。バイオ系ベンチャー企業に勤めていた85年のことだ。

拡大
 PCRをひとことで言えば、DNAの大量コピー法だ。①DNAの二重らせんをかたちづくる鎖2本を加熱によっていったんほどく、②鎖のコピーをとりたい部分に目印をつける、③ポリメラーゼという酵素がその部分に絡みつくもう1本の鎖を合成する、④その結果としてDNAの二重らせんが倍増する――これを数時間かけて数十回繰り返すと、何百万ものコピーを手にすることができる。

 ここでは「わずか」を「大量」にするところが、ポイントだ。学者が検体から採りだせるDNAの量はきわめて限られている。そこからは塩基配列の情報を得るのは至難の業だ。もし、コピーをいっぱいとれたなら詳しく調べられるに違いない。実際、世界中の研究者がこの発明に飛びついた。

癌学会にPCR旋風

拡大1989年10月26日付朝日新聞朝刊に載った筆者の記事
 私が、その動きを知ったのは、89年の日本癌(がん)学会(開催地・名古屋市)だった。事前にがん研究の大御所に様子を聞くと、「今回の目玉はPCR」と教えてくれた。予稿集を繰ると、たしかにPCRという用語があちこちの研究発表に盛り込まれていた。

 たとえば東京大学医学部第三内科のグループは、白血病患者のごく少数の細胞で起こる遺伝子変異をPCR法で見つける試みを発表した。急性リンパ性白血病では、細胞100万個に1個の割でしか見つからない遺伝子異常でも見逃さない精度があるという。「わずか」→「大量」の増幅効果だ。私は、これを記事にした。前文では「白血病の治療効果を確かめ、再発を防ぐのに威力を発揮する」というグループの見解を伝えている。

 いま朝日新聞の記事データベース(“Astand”のシンプル検索、84年以降の記事を登録)で「PCR」の検索をかけると、この拙稿が、朝日新聞がPCR法をとりあげた記事の第1号だったことがわかる。余談を書き添えると、データベースはそれ以前にも「PCR」を含む記事を拾っているが、大半が仏領ニューカレドニアの反独立派組織RPCRに言及したものだった。

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筆者

尾関章

尾関章(おぜき・あきら) 科学ジャーナリスト

1977年、朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退職、16年3月まで2年間、北海道大学客員教授。関心領域は基礎科学とその周辺。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。1週1冊のブログ「本読みby chance」を開設中。

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