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千曲川流域で277年間、受け継がれてきたこと

過去に経験してきた「想定内」の災害に備えることの大切さ

黒沢大陸 朝日新聞論説委員

 台風19号による大雨で、各地で大きな被害が出ています。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。

千曲川の堤防が決壊し、浸水した地域=10月13日、長野市、朝日新聞社ヘリから、遠藤真梨撮影
 堤防が決壊して大きな浸水被害を受けた千曲川。その上流域にある長野県の佐久地方では、毎年、2週間後がお盆だというのに8月1日が「墓参りの日」となっています。この地方で育った筆者は、大人になるまで、それが全国的な行事だと思っていました。もちろん地域限定で、江戸時代にあった大水害「戌の満水(いぬのまんすい)」の犠牲者を悼んで始まったものだと伝えられています。270年以上前の水害をきっかけに始まった風習が伝承され、地域全体の行事として今も続いているのです。

寛保2年にあった大水害

 戌の満水とは、どんな水害だったのでしょう。

 1742年(寛保2年)7月末から8月(旧暦)にかけて台風によるとみられる大雨による水害です。この年は「壬戌(みずのえいぬ)」、江戸時代中期、徳川吉宗が将軍だった時代です。『「戌の満水を歩く」 寛保2年の千曲川大洪水』(信濃毎日新聞社出版局)によると、「千曲川流域の犠牲者は2800人前後と推定でき、関東平野の死者は6000人~1万4000人といまだに漠然としている」という大災害でした。

 新暦では8月末から9月初めにかけて、近畿や中部地方で河川が氾濫、その後、江戸や信州でも水害が起き、千曲川沿いの大水害、利根川や荒川、多摩川でも洪水が発生して関東で大きな被害がありました。「被害の状況から台風が大阪付近に上陸、北上し中部関東を通り、三陸沖から太平洋に抜けた。この時に秋雨前線の活動に刺激を与えたという説がある」(国土交通省の資料)ようです。

 関東では「寛保二年洪水」として知られ、日本歴史災害事典によると、「溺死者は江戸では3914人。葛西領ではおよそ2000人が行方不明」「江戸を除く信濃・上野・下野・武蔵・下総・常陸・上総国の堤防の決壊は、延長43000間、決壊箇所は96035カ所」という被害がありました。現代とは、治水の水準が格段に違うとはいえ、すさまじい災害です。千曲川を含む広域での洪水被害という意味では、今回と似ているようにも思えます。

見上げる位置に残る水位標

破堤場所に近い寺にある「千曲川大洪水水位標」=長野市、10月15日
水位標のひときわ高い位置に示された寛保2年の水位=長野市、10月15日、いずれも小林舞子撮影

 千曲川では大きな水害が繰り返されてきました。今回の大雨で大きな被害が出ている長野市も、過去に大きな被害を受けています。今回、堤防が決壊した場所に近い玅笑寺(みょうしょうじ)には、洪水の時にどこまで水に浸かったのかを刻んだ本堂の柱の記録をうつした「千曲川大洪水水位標」が立っており、そこには明治43年、明治44年、弘化4年、明治29年などの高さが示してあり、ひときわ高い見上げる位置に寛保2年の水位が示されています。

 この洪水では、被害救済で松代藩の財政が悪化して、池波正太郎の小説でも知られる「真田騒動」の一因になったとも言われています。

 長野県内での被害は、上流から佐久穂町、小諸市、東御市、上田市、千曲市、長野市、小布施町、中野市にも記録が残されています。これらの地域で伝えられていることは、

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