科学技術と言論とアートを融合させる実験場——あいちトリエンナーレ鑑賞記(3)
2019年11月11日
前回に続き、再びあいちトリエンナーレについて書く。あいトリには、核兵器や原子力発電を直接扱っていたり、想起させたりする作品も多い。
ミリアム・カーン〈美しいブルー〉と藤原葵〈Conflagration〉は、ともに戦争や核爆発への不安を感じさせる絵画作品だ。この両作も対になっているように見えた。同じ会場にあるスチュアート・リングホルト〈原子力の時計〉は、10億年後、地球の自転速度が低下し、1日が34時間になっても時を刻むことができる時計だそうだ。裏側は放射線の存在を示すハザードマークになっている。この時計を10億年稼働させるためには原子力が必要だということだろうか?
「言論の不自由展・その後」についても述べておこう。筆者は10月13日夜のメディアツアーで同展を鑑賞することができた。
キム・ソギュン、キム・ソンウンの〈平和の少女像〉や、大浦信行の〈遠近を抱えて(4点組)〉がよく話題になるが、筆者が気になっていたのはChim↑Pomの〈気合い100連発〉である。
すでに広く知られているように、この作品は、東日本大震災直後の福島県相馬市の漁港で、Chim↑Pomのメンバーと地元の若者たちが円陣を組み、100回の「気合い」を叫んでいる様子を記録したものである。
「不自由展」の再開が決まり、この作品の内容が漏れ伝わると、ネット上では炎上が再燃した。若者たちの気合いの声のなかには、「被曝最高!」「放射能最高!」といった言葉があった。一部のネットユーザーたちが激しくこれらに反応し、「福島ヘイト」などと言って、同作や「不自由展」、あいトリ、そして芸術監督の津田を非難した。
東京電力福島第一原発事故をめぐっては、その放射線被害を強調する人たちと、それを強調することに慎重な人たちとの間で、大きな分断が生じている。後者が同展やあいトリへの非難に加わり、同じ分断がここでも生じたのだ。困ったことに、筆者は後者に分類されているらしい(もっとも筆者はこの分断を打開すべく、2018年4月、両者に共通する問題を指摘する内容のコラムを『毎日新聞』に書いたら、両者から袋叩きにあったのだが)。
しかしまず一般論として、苦難に遭っている者が自らの状況を自嘲的に語るのはめずらしいことではない。若者ならばなおさらであろう。筆者も東日本大震災の後、三陸や福島を訪れたさい、被災者たちが不謹慎な冗談を口にするのを聞いて、反応に困ったことが何度もある。
また、この作品を最後まで鑑賞すれば、彼らが「放射能最高じゃないよ」「ふざけんな!」と叫んで終わることがすぐにわかる。この作品は「福島ヘイト」なのだろうか? 筆者にはそう見えない。
そしてある被災者の発言が別の被災者にとって都合が悪かったとしても、現実に発せられた言葉を「なかったこと」にするのはむしろ暴力的であろう。
筆者はこの映像作品の音声をTBSのラジオ番組ですでに聞いていたのだが、会場では、〈気合い100連発〉は〈耐え難き気合い100連発〉という作品と対にされて上映されていた。前者はこれまで各地で展示され、好評を得てきたが、ある芸術祭でNGを出された。NGワードをぼかすようにと提案されたが、そのときには別の作品を出品したそうだ。〈耐え難き〜〉はそのときの提案通りに改定したバージョンである。
同時に再生される両者を同時に観ると、右側の〈耐え難き〜〉のところどころに「ピーッ」という音が入り、左側の〈気合い〜〉のどこが問題とされたかがよくわかる。〈耐え難き〜〉は、検閲を免れるために一部を伏字にした、戦前・戦中の新聞みたいだ。「不自由展」で展示されるのにふさわしい作品であろう。
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