国際周期表年に多くの人に知ってほしい「不運の科学者・小川正孝」
2019年12月27日
12月から1月にかけて東京・上野の国立科学博物館で「国際周期表年記念企画展」が開催されており、足を運んだ。個人的に関心を寄せていた小川正孝(大正時代から昭和初期にかけての東北大学総長)も紹介されることがプレスリリースに記載されていたからである。
小川は今から100年以上も前の1908年に「ニッポニウム」という新元素の発見を発表した科学者である。しかし、ニッポニウムは他の研究者には追試できず、否定されていく。小川は生涯をかけてニッポニウムの研究を続けたが、願いは叶わず、1930年、実験中に倒れ、そのまま65年の生涯を閉じた。
小川がニッポニウムと信じた43番元素は自然界には存在せず、人間が放射線を利用して人工的に作り出した最初の放射性元素として1937年に発見され、テクネチウム(Tc)と名付けられた。
私が小川に興味を持ったのは30年ほど前(1980年代)の大学生の頃だ。当時、「栄光なき天才たち」(集英社ヤングジャンプ)というノンフィクション漫画の原作を書いていて、科学者も多く取り上げた。例えば、周期律表と関係が深い人物としてはイギリスの物理学者ヘンリー・モーズリーがいる。1913年、特性X線の研究から原子番号の概念を確立し、元素の発見に大きな進展をもたらした人だ。ノーベル賞は確実といわれていた中、2年後の1915年、27歳の若さで戦死してしまう。
商業漫画誌で(科学ではなく)科学者に焦点を当てた作品は他にはなく、「栄光なき天才たち」はそれなりの評価を頂いた。ただ、もともと私自身の目標が研究者になることだったので、大学院の進学が決まったところで、当初の予定通り、原作の仕事は終わりにした。
そのときに、執筆予定としてストックしていた人物の中に小川正孝が入っていた。捕えられそうで捕えられない。そういうものを追いかけ続けることも科学者の一つの姿のように当時の私は思った。小川は43番元素が自然界には存在しないとは思ってもいなかったに違いなく、幻を追い続けていた。そこに悲運の科学者像を当時の私は感じていた。
ところが、物語はそれほど単純ではなかった。それを知ったのは
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