メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

サイエンティストとしての宮沢賢治

「石っ子賢さん」の童話作品は膨大な科学知識に支えられて生まれた

米山正寛 ナチュラリスト

 「注文の多い料理店」や「風の又三郎」などの童話で知られる宮沢賢治。多くの人にとっては作家としてのイメージが強いだろうが、賢治は作家である前に自然を見つめる科学者であった。そんな自然への関心にあふれる姿に着目して、ミュージアムパーク茨城県自然博物館が企画展「宮沢賢治と自然の世界」(2020年2月2日まで、新年は1月2日から開館)を開いている。

花巻市を流れる北上川。賢治はこのあたりの水辺をたびたび訪れ、「イギリス海岸」と名付けた。青白い崖や川底を、白い地層でできたドーバー海峡の海岸に重ね合わせたという(Shutterstock.com/Ikko Sato)
 

石集めから始まった地質学への歩み

 1896(明治29)年生まれの賢治は、小学校4年生の頃に「石っこ賢さん」と呼ばれていたそうだ。現在の岩手県花巻市にあった生家の近くには北上川が流れ、その河原では本流や支流から運ばれてきた様々な石が見つかった。賢治はそうした石を拾い集め、自然への関心を高めていったという。

 進学した盛岡中学校(現在の県立盛岡第一高校)時代に詠んだ短歌には、瑪瑙(めのう、微細な石英の針状結晶でできた鉱物)や蛭石(ひるいし、園芸でよく使われるバーミキュライト)といった名前が登場する。授業で使われた「鉱物界教科書」(神保小虎著)は現在の中高の教科書よりも高度な内容で、柘榴石(ざくろいし、宝石のガーネット)、黄玉(おうぎょく、宝石のトパーズ)などの宝石をはじめ、様々な鉱物や岩石についての知識を広げていった。

賢治が採集した岩石標本(これも含めて、クレジットのない写真は、茨城県自然博物館で筆者撮影)
 賢治は1915(大正4)年に盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)へ入学し、地質学を中心に自然科学を学んだ。そしてドイツから帰国した関豊太郎教授のもとで、盛岡や花巻あたりの地質調査に力を尽くした。岩手大学には今も、賢治が採集した岩石標本や作成に関わった地質図、そして当時のハンマーや顕微鏡などが残されており、この企画展のために貸し出されている。

 賢治の作品には、こうして学んだ地学用語が豊富に使われており、今回の展示説明に基づくと、鉱物が約100種類、岩石が約60種類も出ているという。

 地質学者である茨城県自然博の横山一己館長は、賢治が行った採集や調査を、自らの体験を通して感覚的に理解できるそうだ。賢治への関心を以前から抱いており、「自分も石が専門なので、博物館で来館者に多くの石を見てもらいたい。そのために誰かの名前を使うとしたら、やっぱり宮沢賢治でしょう」と話す。そして地学だけでなく動植物も合わせた展示の企画を練り上げ、賢治の作品に出てくる鉱物や星座、動植物などを紹介しつつ、賢治がふれ合った自然の姿を知ってもらえる構成にした。

童話「気のいい火山弾」の展示。物語の最後で火山弾には「東京帝国大学校地質学教室行」と書いた札が付けられて運ばれていく
 童話「気のいい火山弾」で賢治は、マグマが空中に飛び出して冷え固まった火山弾を「ベゴ石」と呼んでいる。会場には形の描写からベゴ石に当たるとみられる紡錘状火山弾が、周りに育つ苔(地衣類のイオウゴケらしい)やオミナエシなどとともに並べられ、作品の情景が作り出されている。かどのある石たちに馬鹿にされても、標本として荷馬車で運ばれる運命になっても、文句を言わないベゴ石の姿に、賢治はどんな思いを託したのだろうか。

 童話「十力の金剛石」の金剛石とはダイヤモンドのことで、この作品には他にルビーやサファイア、蛋白石(オパール)、紫水晶(アメジスト)など、きらびやかな宝石がたくさん出てくる。しかし賢治の思う「十力の金剛石」とは、空や太陽、風や丘などであり、身近な自然が光り輝く宝石以上に価値ある存在であることを、伝えようとしている。

星空まで広がった賢治の思考

 賢治は宇宙への関心も高く、中学時代には星座の早見盤を愛用して夜空を眺めていたという。作品には合計33の星座が登場するそうだが、宇宙と関わる代表作は何といっても「銀河鉄道の夜」だろう。

・・・ログインして読む
(残り:約1860文字/本文:約3345文字)