菊池大麓、山川健次郎、寺尾寿
2020年02月24日
明治・大正時代の人物と言われて、皆さんが頭に浮かべるのは誰であろうか? 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、板垣退助、大隈重信といった政治家や、福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三らの思想家、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、与謝野晶子らの文学者、渋沢栄一、岩崎弥太郎らの財界人、野口英世、北里柴三郎らの医学者といったあたりが多いのではないかと思う。
私も、一昨年まではそうだったのだが、昨年その時代の日本の科学者たちの足跡をたどる仕事がいくつかあり、文献などを調べている内に、だんだんと彼らのトリコになっていた。その仕事の一つが日本の近代数学の祖である高木貞治(1875~1960)の著書『数の概念』の復刻出版(講談社ブルーバックス)に際して、その解説として高木の人生と業績について著す機会を得たことであった。
高木は東京大学開校80年を記念した『赤門教授らくがき帳』(1955年出版)に「明治の先生がた」と題するエッセイを寄せて「明治30年に卒業した僕らが教わったのは、20年卒業の長岡さん、15年卒業の藤沢さん、田中館さん、10年卒業の寺尾さん等で、菊池さん、山川さんは英米大学の出身だが時代はやはりそのころだったろう」と綴っている(現在は『数学の自由性』高木貞治著、ちくま学芸文庫 2010年第2刷版 筑摩書房、に所収)。ここに登場する長岡半太郎、田中館愛橘、山川健次郎は日本の近代物理学の祖であり、藤沢利喜太郎、菊池大麓、そして高木貞治は数学の祖であり、また寺尾寿は天文学の祖である。 どの人物も幼少時から神童の誉れ高い能力を有するばかりでなく、個性的で魅力的な人物であり、かつその生き様はノブレスオブリージュの精神を貫いた真のエリートである。
今回はこの7人の傑出した人物、現代の日本の科学の基盤を築いた明治の科学者たちの気概や闘志、熱意に触れていただきたいと筆を執った。私がトリコになったように、きっと多くの方が魅せられるだろう。
数学者、教育行政官。1877年より東京大学教授となり、1901年6月から1903年まで文部大臣を、また東京帝大総長、帝国学士院院長、理化学研究所初代所長等を歴任した。
蘭学者の息子として江戸に生まれ、幼くして蕃書調所で学ぶ。蕃書調所とは、1811年に江戸幕府が設けた洋学の研究所である。時を遡ること1720年、八代将軍吉宗は洋学に深い興味を示し、キリスト教以外の蕃書(オランダを中心とする西洋の書籍、文書)の輸入を許可した。それによって1750年代より、西洋の(医学を中心とした)学問の道が開かれ、1771年に『解体新書』の翻訳が始まり、1776年に平賀源内のエレキテルが完成する等、蘭学が江戸でも花開き始め、それに伴い幕府管轄の研究所が設けられたのだった。
蕃書調所は1862年に開成所と改称され、福沢諭吉、西周らの洋学者が集い、当初は蘭語と英語を、後に仏語、独語、露語が取り入れられた。この開成所が明治時代に入ると開成校(1868年)、南校(1869年)、東京開成学校(1874年)と名称を変え、また蕃書調所とは別にあった幕府西洋医学所が明治に入って東高(1869)、東京医学校(1873)となっていったものと統合されて1877年に東京大学となったのだった。
学校制度が整備されるまでは、南校や開成学校、東京大学に入学するためには、その予科となっていた官立の東京英語学校等で語学を学ぶか、官立開成学校予科を終えるのが一般的だったようだ。しかし菊池はそのコースを辿っていない。
1866年、幕府の命令によって、11歳で英国へ留学した。しかし留学期間中に幕府が倒れ、明治新政府となったため帰国し、開成学校(後の東京大学)に通うことになった。12~13歳にして英国留学経験を持つ稀なる英語の使い手として、明治政府は、まだまげを結っている元武士たちの英語教師として菊池少年を採用した。彼らに試験をした際、なかなか答案を出してくれない大きな生徒たちの試験監督に退屈してしまった菊池少年は、部屋で試験問題と格闘している生徒たちを置いて校庭に出て凧をあげて一人で遊んでいたという逸話が残されている(『おかしなおかしな数学者たち』矢野健太郎著、新潮文庫、1984年版、新潮社)。
1870年(15歳)、明治政府から英国へ再度派遣されケンブリッジ大学(セントジョンズカレッジ)で本格的に数学を学んだ。ケンブリッジでは数学で常に首席だったと言う。留学中の1872年、ラグビーの試合に出場した。恐らく日本人初のラグビープレーヤーは菊池だろうと言われている。
1877年に帰国し、東京大学の教授に就任した。福沢諭吉とも生涯親しかったそうだ。学生たちに愛情深く接する先生で、例えば毎年数学科の卒業生を自宅に招いて洋食のマナーを教えてくれたという。腹を空かせた学生にドッサリ食べさせてあげようという食事会というよりむしろ、学生たちを驚かせ楽しませる趣向を凝らしたものだったそうだ。高木貞治が招かれた時にはナイフとフォークでどう食べていいか分からない、アーティチョーク(チョウセンアザミ)等が出され困惑したそうだ。
近代の西洋の数学を学び持ち帰ったパイオニアとして、学んできたことを日本に広めて礎を築くと言う教育行政官としての大役を乞われ、それを果たした人物だ。
物理学者。会津藩家老職の次男。幕末の会津藩と長州藩の壮絶な戦いで悲運に散った白虎隊の生き残りで、米国エール大学で物理学を学び、1877年より東京大学で理学を教える。その後、東京帝国大学総長、九州帝国大学初代総長、京都帝国大学総長を務めた。
明治初期は「薩長にあらずんば人にあらず」と言われた時代である。政府留学生も薩摩と長州の子弟に限られていた。そこに、
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