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【下】世界が瞠目する業績を挙げた数学者・高木貞治

最高の学問的仕事を成し遂げ、社会的には控え目につつましく生きた

秋山仁 数学者、東京理科大特任副学長

 日本の近代科学の礎を築いた7人の紹介の最後は、世界が瞠目(どうもく)する業績を挙げた数学者の高木貞治である。

高木貞治(たかぎ・ていじ 1875~1950)

 数学者。1900年にパリで開かれた国際数学者会議で数学者ヒルベルトが提唱した「20世紀に解決されることが期待される23題の問題」の中の12番目の未解決問題を部分的に解決する等、代数学の分野で多大な業績を上げ、時代を代表する国際的な数学者として活躍した。

 現在の岐阜県本巣市数屋に生まれ、4、5歳の頃から大人たちを驚かせる神童だった。当時の学制では、小学校の初、中等科を6年かけて卒業するところを3年間で終了し、現在の中学課程にあたる小学校上等科も、通常2年間通うべきところを1年で卒業した。この異例のスピード進級の様子を当時の岐阜日日新聞が報じたほどだった。

 続けて現在の高校課程にあたる5年生の尋常中学、さらに高校と大学の教養課程にあたる2年制の高等中学に通うところを、高木は岐阜尋常中学校に11歳で入学して、5、6歳年上の同級生と学び、15歳11ヶ月の時に首席で卒業した。成績優秀の報奨としてサミュエル・スマイルズ著の原著『Self-Help』(邦題『西国立志編、自助伝』1871年初版)が授与され、明治の若者たちのベストセラーとなった本書を生涯の愛読書とした。

拡大高木貞治

 卒業後、16歳で第3高等中学校(現京都大学)に進み、ドイツで学んだ数学者・河合重太郎教授の教えを受けた。河合門下の後輩には岡潔(1901~1978)もいる。この時代に数学の道に進むことを決め、1894年に帝国大学理科大学(東京大学が1886年に改称された)に入学し、既述の6人の先生がたの下で学んだ。

 1898年から3年間官費でドイツへ留学。ベルリンでフロベニウス、ゲッチンゲンでヒルベルトの下で1年半ずつ学んで帰国。「ベルリンに三学期もおったけれども、大してこれということもなかった」、「1900年に私はゲッチンゲン大学へ参りました。・・ここはベルリンとは様子がまるで変わっているので驚いてしまった。当時は毎週一回大学で談話会があったが、それはドイツはもちろん、世界各国の大学からの、いわば選り抜きの少壮学士の集合で実際、数学世界の中心であった。そこで私ははじめて、二十五にもなって数学の現状に後るることまさに五十年、というようなことを痛感致しました。この五十年というものを中々一年や二年に取り返すわけにゆくまいと思われましたが、それでもその後三学期すなわち一年半の間ゲッチンゲンの雰囲気の中に棲息している裡に何時とはなく五十年の乗り遅れが解消したような気分になりました」等と留学時代の思い出を生き生きと綴った随筆を残している(『近世数学史談』高木貞治著、岩波文庫、2002年第6刷版、岩波書店)。

 1901年に帰国後はしばらく講義や執筆等で忙しくした後、1914年ごろからヒルベルトのところでであっていた問題に集中的に取り組み始め、「高木の類体論」として世界的に知られるところとなる理論を1920年ごろまでに完成させた。ゲッチンゲンで知り合ったドイツの数学者たちが

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筆者

秋山仁

秋山仁(あきやま・じん) 数学者、東京理科大特任副学長

1969年東京理科大学応用数学科卒、72年上智大学大学院修了。日本医科大助教授などを経て82年から東海大学教授、2012年から東京理科大理数教育研究センター長。駿台予備校でも長年教えた。著書に「離散幾何学フロンティア」「教育羅針盤」「数学ワンダーランドへの一日冒険旅行」など。専門は離散幾何学。趣味はアコーディオン演奏、ヨット

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