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首相も「量子」、新聞も全面で「量子」

25年前の量子記者は「成長戦略だけの話ではない」と思う

尾関章 科学ジャーナリスト

 過日、朝日新聞の朝刊をめくっていて驚いた。オピニオン面の最上部に「量子コンピューターの胎動」という見出しが躍り、広告欄を除く全面に記事が展開されている。科学医療部・勝田敏彦記者が執筆した「記者解説」である(朝日新聞2020年2月17日付朝刊)。私は書かれている中身よりも先に、その扱いに目をみはり、そして感慨にふけった――。

不可解さを生かす技術

朝日新聞科学面に連載した記事の初回(1995年10月4日付夕刊)は、量子力学の誕生に貢献した物理学者シュレーディンガーの話題から始まった
 量子コンピューターとは、現代物理学の大黒柱である量子力学の不可解さを逆に生かして高速計算を実現するコンピューターのことだ。量子力学は1920年代半ばに確立されたが、そのころは核心部の不可解さが実験で直接には見えてこなかった。ところが、80年代には極微や極低温の技術が進んで、量子現象が実験室で再現されるようになる。その結果、不可解さが真実であることがわかり、これを情報科学に活用しようとする量子情報科学が台頭した。90年代半ばのことである。

 当時、私は朝日新聞ヨーロッパ総局(ロンドン)の科学記者で、この物理学の新潮流を欧州各地の大学や研究所で取材した。その報告記事は、帰任後の95年秋から冬にかけて科学面に連載した。このとき、もっとも苦労したのは取材でも執筆でもなく、社内の説得だった。「なぜ、こんな話を書くのか?」「市民生活とは関係がない」「しかも、わけがわからないことだらけだ」――そんな冷ややかな視線を感じながら、なんとか10回分を書き通したのだ(朝日新聞夕刊科学面1995年10~12月連載「量子の時代――現代物理『不思議』前線」)。

アリバイが成り立たない

 「量子」が新聞社内で疎ましがられたのも無理はない。量子コンピューターを可能にする量子力学の不可解さが半端ではないからだ。そこでは、状態の重ね合わせということが起こる。たとえば、原子内の電子のエネルギーレベルが「高」状態でもあり「低」状態でもある、というような具合に――その結果、量子コンピューターの内部では、情報単位の量子ビットが、「1」「0」だけでなく「1でもあり0でもある状態」をとりうることになる。

1995年の取材で量子暗号の実験機材を見せてくれたスイス・ジュネーブ大のN.ジザン博士=尾関章撮影
 これは、世間の常識とかけ離れている。新聞には刑事事件の裁判記事が載るが、このとき、アリバイの成否が有罪無罪を見極めるカギの一つになる。被告人Xが事件発生時、事件現場(地点aとしよう)から離れた地点bにいれば犯行は不可能という理屈だ。「aにもいてbにもいる状態」など、あるわけがない。

 ここで思い起こしてほしいのは、1995年には地下鉄サリン事件が起こっていたことだ。超常現象の存在を主張するカルト集団に対して警戒感が強まっていた。量子力学の不可思議さを、ニセ科学の危うさと同列視する向きもあったように思う。

ハイテクがつくる静寂

 だが、そうではないという確信が私にはあった。複数の状態が重なり合うという量子力学の不可解さが私たちの日常にないことには、ちゃんとした理由がある。それは、対象となる物理系(システム)が周辺環境に邪魔されては実現しない。ヒトの身の回りは騒々しくて、この条件を満たさないのだ。ところが、原子や電子などの極微粒子を極低温に冷やしたり、1個ずつ扱ったりすれば、話は違ってくる。そこには、究極の静寂がある。現代のハイテクが極微や極低温の世界を人工的につくり出したからこそ、量子力学の核心部が立ち現れたのだ――。

 懐旧にふけるのは、このくらいにしよう。ただ、今回、量子コンピューターの記事の大展開に隔世の感を覚えたことは、わかっていただけたと思う。

 「量子」が社会の関心事になり始めたことを物語るのは、この記者解説だけではない。去年暮れには同じオピニオン面の「月刊安心新聞plus」欄で、客員論説委員の神里達博・千葉大教授が「量子コンピューターの開発」について論考を寄せている(朝日新聞2019年12月20日付朝刊)。

施政方針演説に「量子」

衆院本会議で施政方針演説をする安倍晋三首相=1月20日、西畑志朗撮影
 さらに驚くのは、今年1月20日、安倍晋三首相の施政方針演説に「量子」のひとことが飛びだしたことだ。「成長戦略」の一節で「次世代暗号などの基盤となる量子技術について、国内外からトップクラスの研究者・企業を集める、イノベーション拠点の整備を進めます」と述べている。ここでは、量子コンピューターではなく量子暗号を例に挙げているが、これも量子情報科学の技術であり、状態の重ね合わせを活用する。

 量子ブームに火をつけたきっかけは去年10月、米国のIT大手グーグルが量子コンピューターの最新記録を英科学誌natureに発表したことにあるのだろう。従来方式のスーパーコンピューターなら1万年かかる計算を200秒でやってのけた、というのである。この比較には批判もある。量子方式と従来方式には、それぞれ得意不得意があるからだ。ただ、私が95年に量子コンピューターの記事を書いたとき、その現物は世界に一つもなく、それは物理学者の想念に過ぎなかった。ところが、今や実在の技術となっている。量子力学の不可解さが超常現象ではなく、物理学のリアルな一面であることが証明されたのだ。この変転は大きい。

 しかも、発表したのはGAFAの一角、グーグル。

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