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安易な業績評価が生む、もう一つの研究不正

「著名研究者」が編集委員・査読者の立場を悪用してやっていたこと

須藤靖 東京大学教授(宇宙物理学)

 優れた研究とは何かを定義することは困難だ。にも関わらず、昨今は大学の研究者の業績を「客観的」に評価し、ややもすれば一次元的に数値化してそれを教員の給与にまで反映する仕組みを導入する大学すら現れている。程度問題なのかも知れないが、私は同意できない。それに関してNatureの2020年2月13日号に興味深い記事が掲載されている。著名な生物物理学者とされるKuo-Cen Chou(周国城)が、専門雑誌の編集委員や査読者の立場を悪用し、自分の論文を引用することを強制して「客観的」業績指標を上げていたというのだ。

Natureに掲載されたKuo-Cen Chou氏についての記事
 この件については後述するとして、特に日本の場合、冒頭に述べた流れの背景には、主として二つの理由があると思われる。一つは、大学教員の多くは大した仕事もせず怠けているのではないかとの性悪説。もう一つは、運営費交付金の減少にともなう大学の財政危機である。

 一般企業において人事評価を行うのは当然であり、それに異論を唱えることこそ大学教員の甘さでしかない、という意見もあるだろう。無論すべて否定するつもりはない。講義や学生指導などの教育業務については学生からのフィードバック、入試業務や学内委員会については年ごとにその負担を勘案して、ある程度客観的に評価できるし、(必要だと考えるなら)それを給与に反映させても良いかもしれない。

 実際、あまり知られていないだろうが、特に入学試験問題作成には向き不向きがある。限られた出題範囲のなかから、幅広い受験生の学力を適切に評価できる問題を作成し、あらゆる角度から不備がないのかを確認する作業は、それなりの適性を要する。優れた研究者かどうかとは独立の能力が必要だ。しかも入学試験を絶対視する昨今の情勢を考えると、担当者の責任と負担は並大抵ではない。安心して任せられる教員だけに集中させてしまうと大きな不公平性を生んでしまう。しかしながら、研究業績の評価に関しては事情がかなり異なる。

「どこで評価」は変化してきた

 私が知っている自然科学研究の場合に限れば、研究業績の「客観的」指標として用いられるのは、

 A 原著査読論文の出版数(例外を除けば、英語のものに限る)
 B 自分の論文が別の論文において引用された件数
 C 論文が掲載された論文誌の著名度(引用頻度の統計に基づいたインパクトファクターで代表されることが多い)
 D 国際学会や研究会における招待講演数

 が主である。

 かつては、Aがある程度の基準を与え、その上で本当に優れた論文が数本あるかどうかが研究業績の評価であった。ところが、研究の競争激化、大型化と国際化(共著者数の増加)、といった様々な要因のため、出版される論文数は急激に増加している。

 その結果、単なる論文数はあまり情報を持たない(乱暴な言い方をすれば、単著の論文1本は共著者100人の論文100本と同じ重みであると解釈することも可能かも知れない)。それに加えて、研究の細分化と高度化によって、狭い意味で同じ研究分野でない限り、どれが優れた論文なのかはおろか、その内容を理解することさえ困難な状態になっている。

研究業績の客観的指標とは何だろうか
 その代わりに重要視されるようになったのがBCである。原著論文が専門誌に掲載される際には、同じ分野の研究者による査読をパスする必要がある。これはピア・レビューと呼ばれており、発表される論文の内容の正しさを担保する重要なシステムである。通常は、編集委員会が決めた同分野の研究者一名が査読者となり、その内容について様々な批判やコメントを著者に返す。人間関係とは無関係に純粋に科学的な立場から厳しい批判ができるように、査読者は通常匿名であるが、査読者が認めれば名前を明かすこともできる。著者と査読者の見解がどうしても一致しない場合には、別の査読者あるいは担当編集委員(通常は専門研究者である)の判断によって掲載の可否が決まる。
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