生きた植物と結びついた研究成果の発信の場に
2020年08月24日
東京都文京区にある小石川植物園(正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園)は、コロナ禍の中で3月下旬より130日間の臨時休園を経て、8月上旬にようやく再開園した。その一画に昨年11月に完成した新温室がある。総床面積は1249㎡と、建て替え前の旧温室(約397㎡)と比べるとほぼ4倍に広がり、見どころと呼べる展示にも趣向がこらされている。夏の日差しに緑を濃くした植物を眺めながら、明治期からの温室の歴史をたどってみた。
小石川植物園の歴史は、300年余り前の1684(貞享元)年にさかのぼる。徳川幕府が江戸の南北に設けていた薬園が廃止され、ほぼ現在の場所に新たな「小石川薬園」が生まれた。薬用植物に関心の高かった8代将軍徳川吉宗などの庇護を受け、幕末まで維持された。これを源とする小石川植物園は、日本最古の植物園と位置付けられている。
欧州で本格的な温室が建設され始めるのは16世紀ごろだが、日本へそうした洋式の大温室がもたらされたのは19世紀末まで遅れた。1892(明治25)年建設の新宿御苑に続き、小石川植物園で本格的な温室が完工したのは1900(明治33)年だった。1897(明治30)年には東大の植物学教室が園内に移転しており、研究への貢献も期待されたことだろう。この時に建てられた温室は、背の高い中央部と低い両翼という現在の新温室までつながる姿をしていた。石炭ボイラーをたいて加温し、珍しい熱帯植物や洋ラン、シダなどが栽培された。大正になるころには、中の植物が大きく育ったためか、屋根を少し高めにする改造工事も行われた。
1923(大正12)年に発行された「植物園案内」には、温室で栽培されていた熱帯植物に関しての記述がある。同年に起こった関東大震災では、植物園が避難民を収容する役目を果たす一方、温室の被害は伝えられておらず、激しい揺れにも持ちこたえたようだ。
昭和になって1934(昭和9)年、植物学教室は整備が進んだ本郷キャンパスに移転した。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年5月24日の空襲の被害は植物園にも及び、温室も高い中央部が焼損して落ち、両翼は骨組みだけになった。戦後の復旧は、まず1952(昭和27)年に木造でなされ、64(昭和39)年には鉄骨造へと改修された。高い中央部のデザインが丸みを帯びたドーム形になったのはこの時だそうだ。
ただ、鉄骨には高温多湿という環境にある温室の宿命と言える腐食との闘いがつきもので、「30~40年程度での建て替えにどこも悩まされる」(日本植物園協会)という。小石川植物園の温室も例外なく錆が目立つようになり、耐震性が低いという指摘も受けて、2008(平成20)年には公開の中止に踏み切った。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください