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日本最古の小石川植物園に登場した新温室

生きた植物と結びついた研究成果の発信の場に

米山正寛 ナチュラリスト

 東京都文京区にある小石川植物園(正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園)は、コロナ禍の中で3月下旬より130日間の臨時休園を経て、8月上旬にようやく再開園した。その一画に昨年11月に完成した新温室がある。総床面積は1249㎡と、建て替え前の旧温室(約397㎡)と比べるとほぼ4倍に広がり、見どころと呼べる展示にも趣向がこらされている。夏の日差しに緑を濃くした植物を眺めながら、明治期からの温室の歴史をたどってみた。

小石川植物園に完成した新温室=筆者撮影

100年以上前に洋式大温室

 小石川植物園の歴史は、300年余り前の1684(貞享元)年にさかのぼる。徳川幕府が江戸の南北に設けていた薬園が廃止され、ほぼ現在の場所に新たな「小石川薬園」が生まれた。薬用植物に関心の高かった8代将軍徳川吉宗などの庇護を受け、幕末まで維持された。これを源とする小石川植物園は、日本最古の植物園と位置付けられている。

明治時代初期に建てられた煉瓦室(手前)と大阪室(奥)の模型。1994年に解体された際に作られた=筆者撮影
 明治時代に入り、1877年(明治10)年の東大創設とともに付属施設となった。この頃に、園内へ最初の洋式小温室ができた。木材と煉瓦、ガラスを素材として、ボイラーのような加熱設備のない状態で建てられた。新温室の完成に合わせて、園内の温室の歴史をまとめた根本秀一特任研究員は「南日本から運んだ植物を冬の寒さから守るため、あるいは球根などを貯蔵するための施設だったようだ」と話す。10年あまりにわたって、煉瓦室(れんがむろ)、大阪室といった名の小温室が少しずつ増やされていった。

 欧州で本格的な温室が建設され始めるのは16世紀ごろだが、日本へそうした洋式の大温室がもたらされたのは19世紀末まで遅れた。1892(明治25)年建設の新宿御苑に続き、小石川植物園で本格的な温室が完工したのは1900(明治33)年だった。1897(明治30)年には東大の植物学教室が園内に移転しており、研究への貢献も期待されたことだろう。この時に建てられた温室は、背の高い中央部と低い両翼という現在の新温室までつながる姿をしていた。石炭ボイラーをたいて加温し、珍しい熱帯植物や洋ラン、シダなどが栽培された。大正になるころには、中の植物が大きく育ったためか、屋根を少し高めにする改造工事も行われた。

完成して間もないころの洋式温室=大正初期の絵はがき、小石川植物園所蔵

空襲の被害を受けて戦後に復旧

 1923(大正12)年に発行された「植物園案内」には、温室で栽培されていた熱帯植物に関しての記述がある。同年に起こった関東大震災では、植物園が避難民を収容する役目を果たす一方、温室の被害は伝えられておらず、激しい揺れにも持ちこたえたようだ。

空襲によって損壊した温室=東京大学総合研究博物館所蔵
戦後に木造で復旧したころの温室=東京大学総合研究博物館所蔵

 昭和になって1934(昭和9)年、植物学教室は整備が進んだ本郷キャンパスに移転した。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年5月24日の空襲の被害は植物園にも及び、温室も高い中央部が焼損して落ち、両翼は骨組みだけになった。戦後の復旧は、まず1952(昭和27)年に木造でなされ、64(昭和39)年には鉄骨造へと改修された。高い中央部のデザインが丸みを帯びたドーム形になったのはこの時だそうだ。

 ただ、鉄骨には高温多湿という環境にある温室の宿命と言える腐食との闘いがつきもので、「30~40年程度での建て替えにどこも悩まされる」(日本植物園協会)という。小石川植物園の温室も例外なく錆が目立つようになり、耐震性が低いという指摘も受けて、2008(平成20)年には公開の中止に踏み切った。

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