「more is different」の名言を残し、固体物理学と日本文化を愛した
2020年04月10日
奇しくも2月に亡くなったフリーマン・ダイソン氏と同じ96歳だった。ダイソン氏は非宗派のクリスチャンで宗教に関する発言も多かったのに対し、アンダーソン氏は無神論者だったところは対照的だが、どちらも大きな影響を科学と社会にもたらした傑出した理論物理学者だった。
米国インディアナ州に生まれ、イリノイ州で育った。専門は、固体物理学、あるいは物性物理学と呼ばれる分野で、磁性の量子論のパイオニアであるヴァン・ヴレック・ハーバード大学教授のもとで学び、1949年から1984年までベル研究所に勤務、この間、1967年から1975年までケンブリッジ大学の理論物理学の教授も務めた。兼任が可能となったのはネヴィル・モット・ケンブリッジ大学教授の尽力のおかげだという。1984年にベル研を辞めてプリンストン大学教授となった。
1958年、のちに「アンダーソン局在」と呼ばれる現象を予言した。結晶中を走る伝導電子は多かれ少なかれ不純物などによる「乱雑さ」の影響を受け、これが電気抵抗の原因になっている。この「乱雑さ」の度合いが強くなると電子は自由に動けなくなり、特定の場所にとらえられたようになる。つまり、局在する。これは実験で確かめられ、理論的な研究も進んで、いまや固体中の電子についての量子力学的な基本的原理と位置づけられている。
この研究が評価され、1977年、「磁性体と乱雑系の電子構造の理論的研究」の業績でモット、ヴレックの恩師2人とともにノーベル賞を受けた。
貢献は固体物理学の分野にとどまらない。質量の起源を説明するヒッグス粒子を予言して2013年にノーベル賞を受けたピーター・ヒッグス博士の1964年の論文には、アンダーソン氏の1962年の論文が引用されている。ここには光子が質量を獲得するメカニズムが説明されていた。このため「ヒッグス粒子」は「アンダーソン-ヒッグス粒子」と呼ぶべきではないかという声さえあった。
しかし、氏の関心は素粒子には向いていなかった。1972年にサイエンス誌に出た論文「more is different」は、1967年の一般向け講演の記録に手を入れたものだ。
こうした「私怨」があったにせよ、「全体は部分の合計ではない。それとはまったく異なるものだ。だから階層ごとに科学が必要だ」という主張は、自然を理解するうえで核心をつくものだった。「more is different」は、のちに勃興してきた複雑系の研究者たちのモットーとなって広まり、経済学を含む科学全体に大きな影響を与えるようになった。アンダーソン氏自身、1984年に米国ニューメキシコ州にできた複雑系を研究するサンタフェ研究所の設立メンバーとなり、理論物理学からコンピューター科学、生物学から社会科学に至る学際的な研究を後押しした。
氏は80年代に米レーガン大統領が進めようとした戦略防衛構想(SDI)に、科学者の先頭に立って反対した。米国の超大型加速器(SSC)建設にも反対した。巨大科学よりもスモールサイエンスを大事にすべきだという立場は一貫していた。
物理学者の「創造性」を、論文がどれだけ引用されたか、その論文自身がどれだけ先行論文を引用しているかの二つの観点から計量化した2006年の研究論文では、並み居るノーベル賞学者の中でアンダーソン氏がもっとも創造性が高いと判定された。ちなみに、2位は
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