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コロナ「全国民検査」は無意味である

検査結果は曖昧、それでも知りたい必然性がある人だけ受けるべきもの

高橋真理子 ジャーナリスト、元朝日新聞科学コーディネーター

PCR検査で採取した検体を調べる臨床検査技師=2020年5月21日、横浜市青葉区の横浜総合病院、池田良撮影
 コロナ禍の中で安全に経済を再開させるためには「全国民検査」が必要だという主張が相次いでいる。世界銀行のチーフエコノミストも務めたニューヨーク大学のポール・ローマー教授が4月下旬にこうした提言を公表し(論座・小此木潔「コロナ危機克服へ米ローマー教授の奇抜な提言」)、日本では鹿島平和研究所理事を務める小黒一正法政大学教授(経済学)と関山健京都大学准教授(国際政治経済学)が発起人となって「『全国民に検査』を次なるフェーズの一丁目一番地に」という緊急提言が5月に入って発表された。ほかにも、テレビなどで同様の主張をする人たちが少なからずいる。

 しかし、「全国民検査」は意味がない。お金がかかりすぎるとか、手間が大変とかいう問題より以前に、そもそも意味がないのである。なぜなら、検査結果には常に曖昧さが伴うからだ。対象を全国民に広げてしまうと、その曖昧さが手に負えないほど大きくなってしまう。検査とは、曖昧であっても結果が欲しいという必然性のある人だけが受けるべきものだ。コロナ対策として大事なのは、必然性のある人の検査が速やかにできる態勢を築くことである。従って、医療現場や介護現場のために検査能力をもっと充実させるべきだという主張には賛成する。だが、全国民に検査を強いるのは的外れと言うしかない。

経済の再開に全国民検査が必要という考え方

 感染拡大を防ぎつつ、経済を再開させるにはどうすれば良いか。感染者をすべて見つけ出して隔離し、感染していない人とすでに感染して回復した人だけで仕事を回せば良い、というのが「全国民検査」論者の考え方だろう。

 良さそうに思えるかもしれないが、問題は「感染者をすべて見つけ出すのは無理」という厳然たる事実を無視していることである。

 新型コロナでは、感染しても無症状で終わる人が少なくないことがわかっている(これはほかの感染症でも同じで、不顕性感染はほとんどの感染症で見られる)。ダイヤモンドプリンセス号の乗客でPCR検査陽性だった人の17.9%は無症状だった。集団感染が発生した米国の原子力空母セオドア・ルーズベルト号では、陽性者の約50%が無症状だったといい、米国の刑務所では陽性だった受刑者約3300人のうち95%が無症状だったという報道もあった。率の違いは年齢層の違いを反映したものと考えられるが、刑務所の場合は「無症状」の定義が違うような気がする。いずれにせよ、感染しても軽症ですむ人や無症状の人はかなり多い。

 無症状であっても、その人の体内にウイルスがいる間は感染させる可能性があると考えられる。だから、無症状でウイルスを保持する人を探し出さなければならない、そのためには全国民を検査するしかない、という考え方になるのだろう。

 しかし、たとえ全国民を検査しても、ウイルス保持者を全部探し出すのは不可能である。必ず見逃しが出る一方、ウイルスはないのに間違ってウイルス保持者と判定されてしまう人もたくさん出る。これは検査が持つ限界であって、どうしようもできないことである。

現実の検査が持つ避けられない曖昧さ

 その理由を理解するため、まず日本疫学会が公開している図を見て欲しい。一般に行われる検査とは、体の中にある何らかの物質の量を量ることだ。そして、人間の体の中で起きている現象は多数の因子がかかわる複雑なもので、検査したい物質が「ある」と「ない」でスパッと分かれることはめったになく、一定の範囲で連続的に変化する。簡単に言えば、個人差があるのだ。

日本疫学会の用語解説「検査の正確さの指標」にある図

 上のグラフでは、感染していない人の数は検査値の低いところにピークがあるが、ある程度数値が高い人も少数いる。感染している人の数は検査値の高いところにピークがあるが、数値が低い人もいる。そして、検査してわかるのは検査値だけである。真ん中へんの数値の人が感染者なのか非感染者なのかはわかりようがない。それでも、「陽性」と「陰性」を判定するために、エイヤッと線を引く。これが「カットオフ値」と呼ばれるものだ。

 高いカットオフ値を採用すれば、感染していない人を間違って陽性と判定することは減る。しかし、感染者なのに陰性と判定される人が増える。逆に低いカットオフ値にすると、感染者が陰性と間違って判定されることは減るが、感染していないのに陽性にされる人が増える。両方を正確に判定することは不可能である。それを承知のうえで、検査の目的に応じてカットオフ値を決めていく。

 だから、結果を知らされる側も判定には曖昧さがつきものであることを承知しておかなければならない。結果の意味を正しく解説してくれる専門家がいないところで検査だけ受けても、それは検査の受け損になるだろう。

PCR検査の特性に即して試算してみると

大分県が開設したドライブスルー方式のPCR検査センターで、検体採取のデモンストレーションをする医師=2020年5月25日、大分県別府市鶴見、加藤勝利撮影
 新型コロナウイルスのPCR検査は、ウイルスの遺伝子を検出する。検体中にある遺伝子を増やしてから測定するので、ウイルス遺伝子がいないのに陽性と出る可能性はきわめて低いという点で優れた検査法だ。一方、感染しているのに陽性とならないことは珍しくない。体の中にウイルスがいても、検体をとった場所(鼻の奥など)にいなかったら、それは陰性と出てしまうからだ。

 このため、感染者が正しく陽性と判定される「感度」は70%程度といわれる。もっと低いという説もあるが、ここでは70%と見ることにしよう。一方、非感染者が正しく陰性と判定される「特異度」は高い。これを99%と仮定して、1億人に検査した場合にどうなるかを見てみよう。感染者の数はわからないのだが、100万人いると仮定してみる。

感染者100万人、非感染者が9900万人の集団に感度70%、特異度99%の検査した結果

 結果は右の表のようになる。感染者が正しく陽性と判定されるのは70%、非感染者が正しく陰性と判定されるのは99%になっている。しかし、検査結果として我々が知ることができるのは、陽性が169万人いた、陰性が9831万人いた、ということだけである。この中に偽陽性、偽陰性が混じっているわけだが、だれがそれにあたるのかはわからない。この仮定では、陽性と判定された中の99万人、何と半数以上が非感染者である。にもかかわらず、169万人が隔離されることになったら皆さんは納得できるだろうか。

 陰性と判定された人のうち非感染者の割合は99.69%である。十分に高い割合のように感じられる。だが、ここに混じっている感染者は率にしたらわずか0.31%でも実数では30万人もいる。この人たちが「検査で陰性だった」と大手を振って活動すれば、感染の予防はできるはずもない。

 それぞれの数字は、感染者数や感度、特異度の仮定を変えると変わってくるが、変わらないのは、これで陰性と判定されても「非感染者」の証明にはならないという事実だ。つまり、検査によって非感染者を特定することはできない。だから、全国民検査はやっても意味がない。

原理的にも「事前に発見」は無理

 それに、「感染させる人を事前に見つける」ことは原理的にもきわめて難しい。感染させる可能性は発症の2~3日前から高くなり始め、発症前後にピークを迎えるというのが今や世界的なコンセンサスになっている。典型的な発症パターンは、感染から1週間程度で症状が出始めるとされる。感染する前に体内にウイルスはいないわけで、感染してから4~5日間(もちろん本人に感染の自覚はなく、この間は無症状)という短い期間に見つけ出さないと「事前に見つける」ことにならない。

 無症状感染者は「発症」というイベントがないわけだが、体内のウイルス量が感染時から徐々に増えていき、それがどこかで減っていくことはおそらく変わらないだろう。その増え始めのときに検査に行かないと、感染予防につながらないわけだ。しかも、その検査でちゃんと陽性にならなければだめだ。ところが、感染してもウイルス量が少ないうちは陽性になる可能性が低い。陽性となる可能性が高くなるころにはすでに感染させうる状態になっているというわけで、「事前に発見」は原理的にも無理ということになる。

 実際、米国ジョンズ・ホプキンス大のチームが7つの研究のPCR検査データ(1330人分)を分析したところ(米内科学会誌5月13日公開の論文)、発症4日前だと陰性の確率が100%(95%信頼区間が100%-100%)で、前日だと67%(同27%-94%)、当日になってやっと38%(同18-65%)だった。95%信頼区間とは、ばらつきのあるデータ集団のうち95%がはいっている区間という意味で、これが「100%-100%」ということは、み~んな陰性だったということだ。4日前以前に見つけるは絶望的である。前日だって過半数は陰性なのだ。

「どこかに無症状感染者がいる」ことを前提に対策を考えるべき

 要するに、全国民検査にメリットはない。逆にコロナ感染に対する忌避感情を増大させるという大きなデメリットがあることを私は恐れる。感染者に対し「検査に行かないのが悪い」という、まったくいわれのない自己責任論が広がることが容易に想像できる。

 「どこかに無症状感染者がいる」という状態は、残念ながらなくせない。それを前提とすることこそ、経済再開後の対策を考える一丁目一番地である。