欠けている本質的な議論 半年遅れの9月入学移行は改悪だ
2020年06月09日
一挙に過熱した9月入学移行の議論もやっと冷静さを取り戻したようだ。少なくともコロナ感染防止のための臨時休校で授業時間が減少した生徒に対する対応と9月入学とは全く独立に議論すべきで、その2つを混同してはならないとの考えは共有されたものと思われる。
一方で、「9月入学は本来実現すべきだが、現実には乗り越えるべき諸問題が山積しているので、残念ながら実行は難しい」との見解が広く流布しているようだ。私はこれは全くの誤解だと信じている。
今回の9月入学移行の議論の発端は、小中高校生の授業時間の確保という全く異なる観点である。そしてそれ自体は何らかの方法で解決(合意)すべき重要な問題だ。しかしながら、ここでも9月入学があたかも打ち出の小槌であるかのように語られ、「このような混乱期であるからこそやりたくとも実現できなかった理想を実現しよう」との主張には全く同意できない。以下、その具体的な理由を述べる。
現在の9月入学移行案は、日本の教育課程を「半年程度遅らせる」ことが前提となっている。その結果、失われた授業時間を取り戻したいと考えているからだ。とりあえず移行期の混乱は忘れて、現在より半年遅れでの9月入学が定着したとしよう。その場合、例えば従来なら2021年3月に高校を卒業するところ、2021年6月頃に卒業が遅れることになる。つまり、外国の大学に入学するのは同じく2021年9月のままだ。卒業と入学の間の数カ月のギャップはなくなるものの、それは卒業を遅らせただけに過ぎない。それがメリットにならないのは自明だ。
メリットがあるかもしれないのは、義務教育を「半年早めて」9月入学を実行した場合である。とすれば、現在の高校3年生はこの6月に卒業しなくてはならず、問題となっている授業時間不足の解決にはならない。さらに、今後の状況によっては断続的に臨時休校が余儀なくされる可能性も高い。これがコロナによる授業時間不足への対応と9月入学とはそもそも独立に議論すべきだとする理由である(後述のように、私は半年ではなくむしろ1年早めた4月入学にするべきだと考える)。
私はメリットがないと考えるが、これは1に比べればやや主観が混じっていることは認めざるを得ない。この項目をメリットが「ない」ではなく「あるか」という修辞疑問文にしたのはそのためだ。
少なくとも私であればそのほうが安心である。その意味において、半年間のずれは、マイナスどころかプラスとして活用できるはずだ。これ以上は教育関係者による定量的な議論が必要であるが、少なくとも私の実感としては、9月入学にしたからといって外国から日本の大学への留学生が有意に増加するとは信じがたい。
9月入学は国際標準「だから」日本も合わせるべきだ、との主張は何を意図しているのかわからない。百歩譲って、大学入学時期に限ったとしても、日本の高校生にとってメリットがないことはすでに述べた。ましてや、義務教育である小中学校までもが「半年遅れて」9月入学に移行するのでは、すべての日本人を半年間留年させるに等しい暴挙である。そもそも、日本と外国の教育ではカリキュラム自体が異なっているので、入学時期を合わせたところで、意味がない。家族の転勤のために、外国で教育を受ける例外的な生徒であってすら、9月入学など意味がない。むしろ、同じ年齢までに学ぶ内容が半年遅れるデメリットのほうが遥かに甚大である(これに関しては、末冨芳・日本大学教授の論座記事が明快に指摘し尽くしている)。
ここまでの説明を通じて、4月入学か9月入学かという視野の狭い議論そのものが不毛であることには同意してもらえたのではないだろうか。
苅谷剛彦・英オックスフォード大教授の研究チームは「2021年度より9月入学を実施した場合、初年度の学年のみ人数が1.4倍に膨らみ、地方財政支出が今より2640億円増え、卒業まで続く。また教員は初年度、2万8100人が不足する」との試算を発表している(朝日新聞5月22日)。これは短期的な9月入学への移行は現実的に困難であることを示唆する。しかし、だからといって授業時間が減少した現在の生徒への対応だけを考えれば良いことは意味しない。むしろ、より長期的な視野から、今後の日本の義務教育のありかたを真剣に検討する契機だと捉えるべきだ。
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