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新型コロナを「戦争」の隠喩で語るのはやめよう

社会統制の強化ではなく、「他者を守る」という考え方を広げたい

細田満和子 星槎大学大学院教授

緊急事態宣言発令のニュースを映すJR名古屋駅前の大型ビジョン=2020年4月7日午後6時1分、名古屋市中村区、上田潤撮影

COVID-19禍ではびこる「戦争」の隠喩

 世界で猛威をふるっているCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)禍で、「戦争」の隠喩(メタファー)で語る言説が目につく。例えば国内外の政治家たちは、自分たちはコロナウイルスとの「戦争の最中」にあり、今は「戦時中」であると言う。また報道でも、集中治療室(ICU)と救急救命室(ER)は「戦争地帯」であり、医師や看護師ら「兵士」が決死の戦いをしていると称賛する。

 病気への対応が「戦争」や「闘い」の隠喩をまとうことは珍しくはないが、これには問題が多い。実際の戦争を過小評価する一方、「戦時中」をうたうことで医学的予防手段であったものを社会的統制の手段に変えるリスクがあるからだ。ウイルスには私たちを殺そうとする意思はない。病いを隠喩で飾り立てるのはやめて、あくまで誰しもがかかりうる「病い」として見ることが必要である。

子供たちに贈るマスクを作る学校給食センターの職員たち=2020年5月21日、熊本県水俣市白浜町、奥正光撮影

 感染拡大を防ぐために奨励されているマスクの着用や社会的距離を取ることも、「戦争」の隠喩では、病気をうつされるという他者からの攻撃に対して自己防衛をすることになる。しかし、自分が無症状の感染者であるかもしれない以上、これは他者への感染を防ぐための思いやりと連帯の行為である。マスクの入手が困難であった時期、人々は手間暇をかけて手作りしたり再利用したりして、困難な状況に対応してきた。COVID-19から「戦争」の隠喩を引きはがすと、パンデミックという危機の中において、人々が工夫や忍耐を重ねて日常生活を作り上げようとしているありようが見えてくる。そのような見方を共有することこそ、長丁場となる「ウィズコロナ」の時代に求められている。

公衆衛生には社会統制の側面がある

 病いに対して「戦争」の隠喩を使うと、「戦争に勝つ」という大義のために個人の自律性が制限されてもやむを得ないと示唆してしまう。COVID-19拡大予防のための外出制限は事実上の隔離ともいえるが、フランスの哲学者ミシェル・フーコーは『近代医学の誕生』の中で、「公衆衛生とは、隔離の洗練されたかたち」といい、公衆衛生の社会統制の側面を指摘した。ひとたび感染症が起こると、都市は細分化され、それぞれの空間は綿密に分析され、絶えず記録がとられるという「監視された軍事的モデル」が適用される。

 世界保健機関(WHO)の定義では、

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