「個」には寄り添ったが、「公」を忘れていなかったか
2020年06月23日
先日、民放の報道番組を見ていたときのことだ。新型コロナウイルス禍に対するコメントで、識者の一人が日本の科学ジャーナリズムの層の薄さを嘆いているのを耳にした。番組を最初から視聴していたわけではなく、録画もしていない。文脈がわからず、断片的に耳にとめただけなので、そのひとことに対する論評は控える。
ただ、以来、そのひとことは私の心にグサリと刺さったままだ。今回のコロナ禍を見ていると、科学報道に長く携わってきた者として自省すべきことがあるという気がしてきた。今、コロナ報道に日々忙殺されている現役記者たちが悪いわけではない。むしろ、前世紀半ばから脈々と続いてきた日本の科学ジャーナリズム、医療ジャーナリズムそのものに弱点があったのではないか――そんな思いがある。
科学記者経験者の多くが痛感したと思われるのは、新型コロナウイルス感染の急拡大期、最先端の医療にほとんど出番がなかったことだ。もちろん、例外はある。抗ウイルス薬が効いたという話はあるし、人工肺も重症患者の治療に生かされた……。ただ近年、科学記者が追いかけてきたゲノム編集や再生医療などとは方向性の異なるところに問題の核心があった。ワクチンや特効薬が開発されるまでの間、感染の広まりを阻む最大の決め手は人と人の接触を減らし、人と人を引き離すことしかなかったのである。
キーワードは「検査と隔離」だ。感染者を検査でいち早く見つけて、未感染者と接触しないように隔離する。そのことで感染者1人がウイルスをうつす人数を「1」よりずっと小さくして事態を収束へ向かわせる。そんな方針がとられることになった。そこでは、数理系の発想が重んじられる。うつす人数を十分に減らすために人と人との接触機会をどれほど節減すればよいのか、検査ではどのくらいの陽性率を見込み、どれほどの隔離施設を用意したらよいのか――こうした数値計算が強く求められたのだ。
だが、過去を振り返ると、この種の視点は日本の医療ジャーナリズムに乏しかったように私は思う。
私が科学記者になった1980年代、新聞社の科学報道部門で新米記者の多くが受けもたされるのは、健康相談欄だった。読者からの手紙やはがきに綴られた健康の不安、病気の悩みを専門医に伝えて、インタビューする。あのころからすでに、読者の求めに応じて最新の診断法、治療法を紹介することが、医療報道の原型とみなされていた。
こうした報道姿勢は1990年代にいっそう強まった。1990年には日本医師会・生命倫理懇談会の提言があって、対話型医療の機運が高まる。医療現場では、患者が治療法の説明を受けたうえで医師に与える同意、即ち「インフォームド・コンセント」が求められるようになった。その結果、なにごとも医師任せにせず、医療情報を自ら収集する患者がふえたのは間違いない。こうして医療報道の需要が拡大したのである。
2002年、朝日新聞社は「科学部」を「科学医療部」に改名した。私たち科学部員の間には、医療取材もまた科学取材の一部なのだから「科学部」のままでよいではないかという思いもあった。だが、社はあえて「医療」を看板に掲げようとした。それまで別刷り日曜版に載っていた健康面を医療面の名で朝刊本体に組み込んだのも、このときだ。こうした機運の高まりを受けて科学報道の取材力は増強される。2004年時点の東京本社科学医療部員数は、その30年前と比べてほぼ倍増していた。
あのころ、ブーム化した医療報道がめざしていたのは、患者や患者家族一人ひとりの思いをすくいあげる記事の発信だった。その象徴と言えるのが長期連載「患者を生きる」(現在はコロナ禍のため、通算3999回で休載中)だ。闘病というよりも病とつきあいながら生を充実させようとする人々に焦点をあて、新しい医療の選択肢を提示してきた。公平を期すために言えば、これには読売新聞の長期連載「医療ルネサンス」という先達があった。「個」に寄り添う記事は、新聞が読者の心をつなぎとめる必須アイテムとなったのである。
だが半面、当時の医療報道には、コロナ禍ではしなくも露呈した公衆衛生政策の不備を「公」の視点から検証しようという方向性が希薄だった。今回のコロナ禍で政府や自治体がもっとも批判されたのは、
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