メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

100年前にカワセミを撮った男がいた!

知られざる野鳥生態写真の先駆者、下村兼史の業績をしのぶ

米山正寛 朝日新聞記者(科学医療部)

   2018年09月12日付で掲載した「100年前にカワセミを撮った男がいた!」で取り上げた下村兼史の写真展が、7月1日から今度は東京都内のフジフィルムスクエア写真歴史博物館で開かれる(開催案内はこちら)。2年前の写真展より会場は小規模だが、新たに展示される作品もあって、下村の写真の魅力を再認識できるようだ。前回の記事でインタビューに応じてくださった塚本洋三さんは、今度の写真展にもアドバイザーのような形で関わっているという。ご了解を得て、この機会に再掲することにした。

 野鳥の写真撮影を楽しむ人が多くなった。そうした人々がこぞって被写体に選ぶのは、羽毛の青い輝きが美しいカワセミのようだ。そのカワセミの姿を約100年前に初めてカメラに収めたのが、日本の野鳥写真家の嚆矢となった下村兼史(しもむら・けんじ、1903~67、※1)である。その写真展が9月21~26日に東京・有楽町で開かれる(※2)。まだガラス乾板を使っていた時代から、重い機材をかついで野鳥を追った下村は何を伝えようとしたのか。写真展の実行委員会事務局長で、生前の下村とも接点のあった塚本洋三さん(78)に語ってもらった。

*   *   *

――野鳥ファンの中でも、下村兼史の名はほとんど知られていない。どんな人だったのか。

拡大下村兼史。20歳前後の時と思われる(バード・フォト・アーカイブス所蔵)
 下村は佐賀市の裕福な家庭に生まれた。家の大きな庭には池もあり、子どものころからそこに来る鳥を眺めるなど、鳥が好きだったようだ。病弱で大学予科を中退したとき、父親から「写真家にでもなれば」とカメラを与えられ、それで野鳥を撮り始めた。1920~30年代は日本を北から南まで(北は当時の日本領だった北千島や樺太、南は奄美大島や小笠原諸島)回って写真を撮り、40年代からは映画の撮影に没頭した。鳥の図鑑に絵も描いており、いずれも日本における先駆者と言える。没後、プリントやガラス乾板、フィルム、書籍などの資料が、遺族から山階鳥類研究所へ寄贈された。2005~08年に私も加わってその資料整理を行い、初期の貴重な生態写真の存在を確認できたので、公開する価値があると考えた。長い準備期間を経たが、写真展の開催にこぎつけることができ、たいへんうれしい。

――撮影はカワセミの写真から始まったようだが。

拡大「原板第1号」のカワセミ=1922年1月5日、佐賀市(下村兼史撮影、山階鳥類研究所所蔵)
 下村本人が、1922年1月撮影のこのカワセミの写真を「原板第1号」と呼んでいた。その前にも何かしら撮っていたと思うが、写真は残っていない。佐賀の家の庭では、池のほとりのマツの枝にカワセミがよくとまることは、観察から気付いていたのだろう。望遠レンズはなかったため、カメラをマツの近くにセットし、本人は家の窓辺まで離れ、長い紐をひいてシャッターを切るという工夫をして撮った。この原板は、山階鳥研の資料の中から見つかったが、かびなどによる劣化が見られた。今回は原板をデジタル化し、それをきれいに修復したプリントをパネル展示する。

――野鳥撮影をどのように学んだのか。

 はじめは教わる人もいなかった。当時、アメリカのコダック社が出していたコダケリーという写真雑誌に、生態写真の撮り方が連載されていた。どうやって手に入れていたのか分からないが、友人が(下村と)二人で読んで、「随喜の涙を流した」と書き残している。海外の情報をもとに、試行錯誤しながら研究したのだろう。

――当時の撮影の様子は。

 100年近く前に野鳥の生態写真を撮る苦労は、今と比較にならない。下村は1926年に佐賀から福岡に転居したが、それから何度も有明海へ撮影に行ったことが記録に残っている。当時は汽車賃が往復3円、ガラス乾板は1箱12枚で1円30銭、その他の経費も見込んで、5円(今の価値で1~2万円くらい?)がたまれば出かけていったという。車もない時代で、カメラのほかにレンズや三脚、ブラインド(目隠し)用のテントなどを持って、駅から1里(約4キロ)の道を干潟まで歩いたというのだから大変だ。しかも、1日に12回シャッターを押したらおしまいだから、潮の干満を見計らいながら、1回のチャンスにかける緊張はすごかっただろう。

――今のデジタルカメラによる撮影では、たくさん撮った中から良い写真を選ぶのが普通だから、まるで違う

拡大ナベヅルの降下飛翔=1928年1月25日、鹿児島県荒崎(下村兼史撮影、山階鳥類研究所所蔵)
 ツルの群れの撮影に出かけた鹿児島県の荒崎で撮ったナベヅルの降下飛翔の写真を見ると、田園風景の中へ、まさにツルの群れが下りようとしている。大きな鳥だが、実際にはあっという間のこと。そこを1回のシャッターチャンスで捉えるのは並大抵のことではない。荒崎では、わらをかぶせた隠れ家(ブラインド)を地元の人に造ってもらい、何時間も中で待って近くに来る鳥を撮影した。今では当たり前の方法だが、そんなことも初めてやった。この写真には、わらぶき屋根など1920年代の情景が写っていて、耕地整備がなされた今とは周囲の環境が全く異なる。野鳥の生息環境が大きく変化したことを伝える点でも、下村が残した写真はとても貴重だ。

――その後、上京して各地の鳥を撮影するようになった。

拡大手の上のジュウイチの雛に給餌するオオルリ=1929~31年ごろ、静岡県須走(下村兼史撮影、山階鳥類研究所所蔵)
 著名な鳥学者だった内田清之助と、1929年ごろに九州から上京して会い、内田のはからいで財団法人の資金助成を得たり、農林省の嘱託職員となったりして、はじめは富士山麓、その後は先ほど話したように全国で写真を撮った。下村による学術的な貢献の一つに、托卵鳥の撮影がある。
・・・ログインして読む
(残り:約1748文字/本文:約3963文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

米山正寛

米山正寛(よねやま・まさひろ) 朝日新聞記者(科学医療部)

朝日新聞科学医療部記者。「科学朝日」や「サイアス」の編集部員、公益財団法人森林文化協会事務局長補佐兼「グリーン・パワー」編集長などを務め、2018年4月から再び朝日新聞の科学記者に。ナチュラリストを夢見ながら、とくに自然史科学と農林水産技術に関心を寄せて取材活動を続けている。

米山正寛の記事

もっと見る