木村資生さんの中立説とは異なる「ほぼ中立説」は21世紀に入ってから認められた
2020年09月10日
その太田さんが、『信じた道の先に、花は咲く-86歳女性科学者の日々幸せを実感する生き方』(マガジンハウス)という本を出した。「これまでの人生で得た幸福の在り方、希望の持ち方についての考えを著した」もので、自伝的な要素はあるものの自伝とは異なる。改めて太田さんの歩んだ道をたどりたいとインタビューを申し込むと、快く応じてくださった。コロナのために対面取材はかなわず、長い電話でのやりとりとなった。
太田さんは、50歳未満の女性科学者を顕彰する猿橋賞が1981年にできたとき、最初の受賞者となった。その後、何度かお目にかかり、講演も拝聴したことがあるが、一言でいえば控えめで、自分の業績をことさらにアピールすることもなく、黙々とわが道をいくタイプである。お話しすれば気さくな方だとわかるのだけれど、集団遺伝学という専門分野が素人には理解が難しく、そのことが近寄りがたい雰囲気を作り出していたようにも思う。
しかし、2015年にスウェーデン王立科学アカデミーからクラフォード賞を受賞、その翌年に文化勲章という事実から、木村さんとは独立に優れた業績を残したことがわかる。いったい、1994年に70歳で亡くなった木村さんとの間柄はどんなものだったのだろうか。私の主たる関心はそこに向いた。
1933年、愛知県三好村(現みよし市)に生まれた。
「家は小さい地主でした。小6のときに敗戦になって、それで生活がガラッと変わった。土地を全部とられて、貧乏になりました。父は小さな田を耕すようになったけれど、体を鍛えていないから朝から晩までは働けない。細々と食べる分だけ作っていました」
「2歳上の姉とよく人形遊びをしました。姉は少女小説が好きで、本ばっかり読んでいたんですけれど、私は本が好きじゃなくて、セミを取ったりして遊び歩いていた。女学校3年生のときに新制高校に変わってそのまま豊田西高校に進みました。女学校のときにわりといい先生にめぐりあって、数学、物理、英語は喜んで勉強しました。幾何の問題を解くのは面白かったですね。塾なんてないし、私は部活もやらなかったから、時間はいくらでもあった」
「9歳上の一番上の姉が医者になりまして、『基礎だけは中高のころにしっかりやりなさい』とよく言っていたので、自然と女の人も勉強は大事だと思っていました。だから高校のときは一生懸命勉強しました。この姉は私が高校3年のときに病死し、本当につらく悲しい思いをしました」
地元の国立大学・名古屋大学に入学すると、教養学部の同じクラスに岡崎恒子さんがいた。
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