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科学はアベノカガクのままでよいか

科学はイノベーションのためだけにあるのではない

尾関章 科学ジャーナリスト

看板に「・イノベ…」を追加

 安倍晋三政権は、総理大臣の一念がありながらできなかったことが多い。憲法改定も、拉致問題解決も、北方領土返還も……。だが、その思いを曲がりなりにも形に残せたものがある。安倍流の科学技術政策だ。「アベノカガク」と呼んでもよい。

総合科学技術・イノベーション会議で、遠隔操作ロボットと名刺交換する安倍首相(左)=2020年1月23日、岩下毅撮影
 その「形」とは、内閣府に置かれた「総合科学技術会議」の名を「総合科学技術・イノベーション会議」(CSTI)に改めたことだ。それは、2014年5月のことだった。わざわざ、内閣府設置法の一部を改めて看板を塗りかえたのである。ただ当時、この改称が大きく報じられたという記憶が私にはない。今、朝日新聞データベースに会議名を打ち込んで検索をかけてみても、同年5月前後に改称を伝える記事は見当たらない。

 この会議には、科学技術政策を省庁の枠を超えた立場から企画立案し、調整する役割がある。改称は、世間にとって些細なことかもしれない。だが、科学者やその周辺の人たちにとっては無視できないはずだ。報道がもう少しあってもよかったのでは、と私は思う。

強調された産業化の出口 

 ちょっと言葉尻にこだわってみよう。「科学」とは、知的探究の試みを指す。これに「技術」を付け加えて「科学技術」にすると、科学を世の中の役に立てるというニュアンスが出てくる。これだけで十分に「科学」を実社会に生かそうという方向性が感じとれる。そこにさらに「・イノベーション」をくっつけたのだ。「イノベーション」(innovation)は本来、発想や手法を新しくするといった意味の言葉だが、日本では「技術革新」と訳されることが多いので、ダブリ感は否めない。

 改称後、首相官邸で開かれた初の会議で、議長の安倍首相は会議名を長くしてしまった理由を説明している。「・イノベーション」には「単なる研究開発の促進のみならず、この成果を産業化等の出口へつなげていく」との思いを込めたというのである。「単なる研究開発」で終わらせないというのなら従来の「科学技術」でも十分のはずだ。「・イノベーション」の追加は、「産業化等の出口」を強調するメッセージと言えよう。

筋金入りのこだわり

イノベーション25戦略会議にのぞむ(左から)塩崎官房長官、安倍首相、高市イノベーション担当大臣、黒川清座長=2006年10月26日、松本敏之撮影
 安倍首相のイノベーションへのこだわりは筋金入りだ。それは、第1次政権にさかのぼる。2006年、初めて政権に就いたときの所信表明演説で「人口減少の局面でも、経済成長は可能」として「成長に貢献するイノベーションの創造」を謳い、2025年までを見通す長期戦略指針「イノベーション25」の策定を宣言した。そして実際、日本学術会議の見解(報告書「科学者コミュニティが描く未来の社会」)なども聞いて、翌年にこの指針を閣議決定したのである。

 その指針は、少子高齢化からグローバル化、気候変動、そして新型感染症までも視野に入れており、問題意識は的外れでない。ただ、それらの解決に向けた道筋を明示したとは言い難い。むしろ、イノベーションの代表例として「一家に1台家庭ロボット」「世界中どこでも財布を持たずに生活OK」など、いかにもありそうな未来図を示したことで、かえって世間をシラケさせてしまったように思う。そしてまもなく、第1次政権は退陣した。

iPS細胞も「成長戦略」に

 第2次安倍政権が発足したのは、2012年12月。ちょうど山中伸弥・京都大学教授のノーベル医学生理学賞受賞で日本社会が沸いていたころだ。安倍首相は翌年1月の所信表明演説と2月の施政方針演説で、山中グループが開発したiPS細胞(人工多能性幹細胞)の話をもちだしている。どちらとも、iPS細胞をアベノミクス3本の矢の一つ、「成長戦略」の目玉商品に位置づけた。前者では、それが創薬研究にも使えることに触れて「実用化されれば…(中略)…新たな富と雇用も生み出します」と期待感を示している。

衆院本会議で所信表明演説をする安倍晋三首相。iPS細胞への期待にもふれた=2013年1月28日、樫⼭晃⽣撮影

 この足どりを踏まえて、総合科学技術会議の看板塗りかえを読み解くと、安倍首相の科学観が浮かびあがってくる。そこに見えるのは、科学の値打ちはイノベーションにつながってこそ高まる、という考え方だ。そのことは、一連の演説や挨拶で科学技術を語るとき、「成長に貢献するイノベーション」「富と雇用」「成長戦略」「産業化等の出口」といったキーワードをちりばめていることからも明らかだ。アベノカガクは、ただ科学技術の経済効果を重視しているだけではない。それが日本経済の再生を促し、自国の経済成長に寄与してくれることを求めていると見てよさそうだ。

「出口」の見えない大発見も

 私は、ここで科学をイノベーションに結びつける科学政策を否定しようとは思わない。「イノベーション25」にもあるように、私たちの前には少子高齢化やグローバル化、気候変動、新型感染症などの難題が山積しており、そこで解決の決め手となるのは科学だからだ。だが、科学は最初から「出口」が見えているわけではない。

 一例を挙げよう。

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